大義と迷い
キーブレード墓場での決戦後、私とヴェントゥスは星の海を漂っていたところをミッキーに助けられた。
それは私にとって、不幸中の幸いだった。
その後、ミッキーによってイェン・シッド様の搭に匿われた私は、テラは行方不明になり、ヴェントゥスは昏睡状態のままであることを知った。
加えて、私はイェン・シッド様から彼が知る限りの真実を聞かされた。
マスター・ゼアノートの野望。
この世界の成り立ち。
そして、アンヴァースの起源。
「あの仮面の少年……ヴァニタスこそが、全てのアンヴァースの起源だったのだ」
イェン・シッド様が言うには、私が何度も戦った仮面の少年こそがアンヴァースの大本らしい。
しかしながら、俄には信じ難い。
仮面の少年——ヴァニタスはあくまで人間のはず。
その彼が、本当に怪物然としたアンヴァースの生みの親なのだろうか。
「部分的にではあるが、私も先の戦いのことは星からの報せで知っておる。そなたがヴァニタスの攻撃によって気を失った後、ヴェントゥスの奮闘によりそなたに止めが刺されることは避けられた。そして、ヴェントゥスが辛くもヴァニタスに勝利した直後にヴァニタス自身が語ったのだ。アンヴァースとは自分の感情から生まれしものだとな」
「アンヴァースが……ヴァニタスの感情から生まれた……」
「うむ。尤も、その前後のやり取りについては私にも分からん。闇の力とχブレードの波動によって星からの報せも上手く感知できんかったものでな……」
私が意識を取り戻した時、既にヴァニタスの姿はなかった。
私はヴェントゥスがヴァニタスを退けたのだと思ったが、実際にはヴェントゥスの体がヴァニタスの精神に乗っ取られたらしい。
私は、闇の気を発するヴェントゥス——いや、ヴァニタスと剣を交えた。
ミッキーの援護もあり、何とか私はヴァニタスと互角に戦うことが出来た。
その戦いの途中で、χブレードなるものが暴走するという形で戦闘が中断された。
その際、私は無我夢中でヴェントゥスの手を掴んだ。
そして気付いた時には此処——イェン・シッド様の塔に居たのだ。
「今のヴェントゥスは眠り続けてはおるが、ヴァニタスの気配は微塵も感じぬ。星から報せと、アクアから聞いた話を総合して考えれば、ヴァニタスは何らかの手段によってヴェントゥスの体を乗っ取った。しかし、意識下でヴェントゥスの精神がヴァニタスに打ち勝った」
「はい。私もヴェントゥスと戦いながら、そのような気配を感じました。」
「ヴェントゥスは、ヴァニタスの支配から解放された。そこまでは良かったのだろうが、ヴェントゥスの精神は、その反動に耐えきれなかった。だから今のヴェントゥスからは彼の心が感じられず、そして眠り続けているのだろう」
すぐ近くにヴェントゥスの顔が見える。
その表情はとても安らかなものだった。
イェン・シッド様の言葉には説得力があった。
そう、ヴェントゥスは『耐えきれなかった』のだ。
それは体を乗っ取られていたとはいえ、ヴェントゥスと剣を交えた私にも責任はあるだろう。
「アクアよ、気に病むことはない。諸悪の根元は全てゼアノートとヴァニタスにある。おまえの責任ではない」
「わかっています。ですが……」
マスター・ゼアノート——。
彼は、私の——いや、“私たち”の師であるマスター・エラクゥスを手に掛けた——殺めたのだ。
その他にも人伝に聞いた話を繋ぎ合わせれば、この一連の事件における黒幕が彼だということは理解できる。
しかし、私自身がゼアノートと顔を合わせたのは、マスター承認試験の時と、キーブレード墓場での決戦時の二回のみだ。
しかも、その際に会話らしい会話をしたわけでもないので、ゼアノートの為人というものが、自分の中ではかなり漠然としている。
私が実際に関わる機会が多かったのは、ゼアノートの弟子——ヴァニタスの方だ。
レイディアントガーデン、ネバーランド、そしてキーブレード墓場での戦いを含めれば、合計で三回も剣を交えたことになる。
何れの戦いでも、彼は嬉々として私に刃を向けていたように思える。
キーブレードで他者を傷付けることに関して、何の躊躇いも持たない少年。
キーブレードを悪用することについて、何の迷いも感じない少年。
闇に魅入られた、危険な少年。
それが私の中におけるヴァニタスの人物像だった。
「ヴァニタスはゼアノートの弟子だ。二人は結託して世界に混乱をもたらし、あまつさえおまえたちの師をも殺めた。その仇敵を、おまえと討ち取ったのだ。そうでなければ、ヴェントゥスの体は永遠にヴァニタスに支配されたままであっただろう。結果としてヴェントゥスは眠り続けてはいるが……おまえは間違いなく正しいことをしたのだぞ、アクア」
「はい………」
イェン・シッド様の励ましの言葉が胸に染みる。
そう、自分は正しいことをしたのだ。
自分がキーブレードを用いて戦わなければ、ヴェントゥスの体がヴァニタスに乗っ取られたままだっただろう。
それで良いはずがない。
自分が戦いに勝利しなければ、ヴェントゥスの体を使ってヴァニタスがχブレードの力を用いてのキーブレード戦争を引き起こしていただろう。
それで良いはずがない。
自分は正しいことをしたのだ。
他に方法はなかった。
頭では理解している。
しかし、この胸の内を焼くような痛みは、一体どこから来るのだろうか。
「……イェン・シッド様」
「何かな?」
「私はこの旅の中で……キーブレードで他人を傷付けることを経験しました。旅立ちの地でもマスターやテラ、ヴェンと訓練の一貫として剣を交えることはありましたが、明確な敵意を以てキーブレードを武器として使ったのは……外の世界に出てからが初めてでした」
「……ウム」
「アンヴァースのことは、事前にマスターから教えられていました。生命に精通しない魔物だと。だからキーブレードでアンヴァースを討ち取ることには、何の抵抗もありませんでした。色々な世界で遭遇した悪人たちや異形の者たちにも、情けは無用と思ってキーブレードを向けました。大義は自分にあると言い聞かせて、戦うこと自体に何の迷いもありませんでした」
「……そうか」
「私は……ヴェントゥスを救うためにヴァニタスと戦いました。戦いの最後はχブレードが暴走するという形となりましたので、彼との決着は付きませんでしたが、私は間接的にヴァニタスを滅ぼしたと言えるでしょう。悪人とはいえ、私はキーブレードで相手の命を……存在を滅ぼしたんです」
「……それは考え過ぎではないかな、アクアよ」
考え過ぎ——確かに、そうなのかも知れない。
ヴァニタスを倒さなければ、逆に私がやられてしまっていただろう。
そうなれば当然、ヴェントゥスにとっては現在以上に不幸な結末が待っていたことは想像に難くない。
自分のためにも、ヴェントゥスのためにも、私は戦うしかなかったのだ。
頭では理解している。
だが、感情が付いてこない。
重苦しい感情——罪悪感を拭いきれない。
「私はマスターから、闇は存在してはならないものだと教えられました。だから闇に与する者には、容赦は要らないと思っていました」
「エラクゥスの教えは、決して間違ってはおらんよ」
「闇の存在……ヴァニタスはその最たる例ですから、マスターの教え通りに闇の存在を討ったこと自体は、間違いではなかったと思うんです」
「ウム、その通りだな」
「でも、少しも嬉しくないんです。いくら闇の存在でも、ヴァニタスは人間です。アンヴァースの根源とはいえ、アンヴァースのような魔物じゃない。人間である以上、命がある。心もある。それを、私は“無”にしてしまった……」
出来ることなら——。
出来ることなら、殺めたくなかった。
例え、闇の存在であっても———。
「アクアよ……おまえは優し過ぎるのだな」
「いいえ、そんなことはありません。ただ未熟で、甘さを捨て切れていないだけです。私にはキーブレードマスターの資格なんて無い。大義のために、他人を傷付ける覚悟すら出来てなかった……」
「優しさと甘さは違うのだよ。おまえの優しさがヴェントゥスを救ったのだ。もっと胸を張りなさい」
私は涙を堪えながら立ち上がった。
そうだ、感傷に浸っている暇はない。
ヴェントゥスは昏睡状態で、テラは依然として行方不明なのだ。
今は私が——キーブレードマスターである自分が、もっとしっかりしなくてはならない——。
「感謝いたします……イェン・シッド様」
私は眠っているヴェントゥスを背負った。
ヴェントゥスをイェン・シッド様の元に置き去りにして行くわけにはいかない。
ヴェントゥスを狙って、ゼアノートがイェン・シッド様のもとを襲撃する可能性もあるのだ。
しかしながら、テラを探す道中ですぐに目を覚ます見込みが無いヴェントゥスを連れて歩くのも危険過ぎる。
もっと誰からも干渉されることない、ゼアノートですら容易に手を出せない安全な場所にヴェントゥスを匿う必要があるのだ。
特に行く宛があるわけではないが、いつまでも此処には居られない。
「イェン・シッド様……お世話になりました」
私はヴェントゥスを背負ったまま一礼をした。
そしてイェン・シッド様に背を向け、部屋のドアに手を掛けた。
「待ちなさい、アクア。そのままでいいから聞きなさい」
背中越しに、イェン・シッド様の声が聞こえた。
「おまえの師——エラクゥスの教えが、全てにおいて正しいとは限らない。闇は善くないものであるというエラクゥスの意見には、私も賛成だ。しかし、世界は光と闇で出来ている。闇が無ければ、この世界は成り立たないのだ。だから私は全ての闇が、絶対悪だとまでは思わん」
悪いのは『闇を悪用する』者たちなのだ。
つまり、『闇』そのものが悪いわけではない。
イェン・シッド様は、そのことを言いたいのだろう。
「弟子は師に似るものだ。だが、あくまで似ているだけであって、両者は別人なのだ。師弟で考え方に違いがあるとしても、それは不思議なことではない」
「……はい」
「だから、自分にとって何が正しいのかは自分で決めなさい……マスター・アクア」
「……ありがとうございます」
何が正しくて、何が間違っているのだろうか———。
その答えを見出せる日は、一体いつになるのだろうか———。
私はそんなことを考えつつ、振り返らずに部屋を出た。
闇からの誘い
搭の外に出た私は、ヴェントゥスに導かれるようにして旅立ちの地へと辿り着いた。
無惨に引き裂かれた、私たちの故郷。
その光景を見ていると、自分の中にある想い出まで引き裂かれるような気がした。
感傷に浸る暇もなく、私はマスター・エラクゥスの遺品——彼のキーブレードを使って、私は旅立ちの地を『封印』した。
訪れる者すべてを、忘却の彼方へと誘う城———。
この場所ならば、ヴェントゥスを安全に匿えるだろう。
ヴェントゥスを変形した城の一室に安置し、私は外に出た。
その刹那——。
アクア——俺を消してくれ———。
テラの声が聴こえたような気がした。
「テラ……私を導いて」
私は鎧を纏い、星の海に乗り出した。
その後、私はテラを探して、様々な世界を再び巡った。
テラの手掛かりを求めて、かつて訪れた世界の人々と話をする中で、私はあることに気付いた。
アンヴァースが依然として存在しているのだ。
数自体は少ないが、突然姿を現したかと思えば、私の姿を見るなり襲い掛かってくる。
各世界の住人たちの話を聞く限りでは、かつてのように積極的に悪事を働いるわけではないようだが——。
アンヴァースの起源は、ヴァニタスである。
そのヴァニタス本人は消滅したはずだ。
しかし、それはヴェントゥスからヴァニタスの気配が消えたという状況から判断したに過ぎない。
アンヴァースが少なからず生存しているということは、その大元であるヴァニタスも実は生きているのだろうか?
いや、生きていると言うよりは、何らかの形で存在しているのだろうか?
そう考えた私は、再びキーブレード墓場を訪れようと思い立った。
まだこの世界ではテラの行方について調べていなかったからだ。
いや、キーブレード墓場に向かったのはそれだけが理由ではない。
何か理屈ではない、キーブレード墓場に私を引き寄せる『何か』があるような気がしたのだ。
簡単に言うなら、強い闇の気配——とでも呼ぶべき類のものだろうか。
しかし、不思議と邪悪な印象はない。
あれほど疎み、嫌悪したはずの『闇』なのに、以前ほどの不快感が今は湧いてこない。
キーブレード墓場から感じる『闇』からは、言葉では表現し難い波動を感じる。
敢えて言うならば『虚しさ』だろうか。
自分に足りない何かを求めて、ただ虚ろに漂っている——そんな印象を受ける。
キーブレード墓場の荒野に降り立った私は、宙に浮かぶ紋章のようなものを見つけた。
その紋章は、歯車のような形をしていた。
自分が感じた『闇』の気配——その発生源は、おそらくこれだろう。
見たところ、残念ながらテラの行方を捜す手掛かりにはなりそうにない。
それなのに——なぜだろう。
なぜ、目の前の紋章から目が離せないのだろう。
私はさらに紋章まで近寄って、そして注意深く、その闇の波動を探った。
近くで感じてみると、よくわかる。
不思議なことに、目の前の紋章からはアンヴァースと同じ波動——いや、思念のようなものを感じるのだ。
しかし、アンヴァースそのものではない。
残忍で、凶暴で、破壊への渇望を秘めた思念。
それでいて、どこか空虚な雰囲気を感じさせる思念。
この気配は、まるで———。
「……ヴァニタス?」
ふと、幾度となく対戦した少年の名を呟いた。
その刹那、目の前の紋章から勢いよく闇の奔流が溢れ出した。
瞬く間に闇が広がり、そして人の形となり——“それ”は荒野の大地へと降り立った。
“それ”は——いや、“彼”が右腕を宙に差し出すのと同時に、その手の中にキーブレードが現れた。
歯車を模した形状のキーブレード——その形状には見覚えがあった。
ただ違うのは、記憶の中にあるキーブレードとは、色味が異なるということ。
そのキーブレードの主である“彼”の衣装も、キーブレード同様のカラーリングだということ。
黒色と白色を基調とした、衣装とキーブレード。
私が剣を交えた仮面の少年——ヴァニタスと酷似した“彼”は、何も喋らずにキーブレードを構えた。
“彼”がヴァニタスなのかどうか、私には分からない。
ただ一つだけ分かるのは、何らかの強大な思念が“彼”を形作っているということ。
その“彼”は、私と戦う気だ。
その身から漏れ出る凄まじい殺気が、“彼”の戦意を証明している。
そして、その仮面の下で笑っていることも何となくわかった。
私と戦うことが、そんなに嬉しいのだろうか。
いや、喜ばしいのだろうか。
どちらにせよ、私は戦わなければならない。
ただ単に、自分の身を守るためだけではない。
“彼”が何を考え、何を思って私に刃を向けるのか、それを知りたい。
自分自身の目で、見極めたい———。
その後は、一進一退の攻防が続いた。
“彼”は、私が今までに戦った誰よりも強かった。
テラよりも、ヴェントゥスよりも、マスター・エラクゥスよりも強い。
そして、究極の鍵——χブレードを振るったヴァニタスよりも強かった。
この世の闇を、私を仕留めるためだけに凝縮したような——そんな暴威に満ち溢れた力だ。
キーブレード同士がぶつかり合い、火花が散る。
その過程で、私には“彼”の心情が何となくわかってきた。
“彼”はこの力で、私に何かを伝えたがっている。
そのような気がしてならない。
“彼”のキーブレードを受け止める度に、言葉では言い表せない激情が湧き起こる。
理屈ではなく、私の心がそう感じる。
闇の存在理由を、光に対してぶつけてくる“彼”。
闇の存在を、認めてほしい——。
闇の存在を、受け入れてほしい——。
闇の存在だからって、何が悪い——。
光の存在だからって、何が偉い——。
闇は世界に、あってはならない——?
決めつけるな——。
闇を、下に見ているのか——?
馬鹿にするな——。
闇だって——俺だって——光と分かり合いたい。
私と“彼”のキーブレードが、至近距離でぶつかり合う。
仮面の下の素顔は、私には見えない。
でも、何となくわかる。
戦いの最中、“彼”の仮面の下にある素顔を、私はイメージした。
それはきっと、子供のような表情なのだろう。
何をどうすれば良いのかわからない、子供のような表情なのだろう。
そのやり場のない感情を、今まで吐き出し続けてきたんだね——ヴァニタス。
次の瞬間、私が仕掛けた地雷魔法が“彼”の足元で炸裂した。
その時の様子が、私にはスローモーションのように感じられた。
この世界に流れている時間が、一気に遅くなったような——そんな感覚だった。
“彼”の手から、モノクロ調のキーブレードがゆっくりと離れる。
カシャン、という音を共に、そのキーブレードが荒野の地に落ちた。
そして、“彼”もまたキーブレードのすぐ隣に倒れた。
勝敗は、今ここに決した———。
闇との対話
「止めを刺せ……マスター・アクア」
大地に倒れ伏した“彼”の声は、確かにヴァニタスのものだった。
戦いの最中に抱いた疑念が、確信へと変わった瞬間だった。
間違いない——目の前にいる“彼”はヴァニタスなのだ———。
その事実を悟った私は、右手からキーブレードを消し、彼のすぐ隣で膝立ちの格好になった。
自分とヴァニタスは、もう十分に戦った。
もう武器はお互いに必要ない。
今、必要なのは言葉だ。
対話によって、相手を知ろうとする気持ちだ。
たとえ相容れない結末が待っているのだとしても、話し合い、理解し合う努力を放棄してしまっては駄目なのだ。
「ヴァニタス——私には、貴方のことがわからないわ」
「どういう意味だ?」
「貴方は闇の力を操る危険な存在。世界に混乱をもたらす存在。私が倒すべき敵。その気持ちは今も変わっていない。でも……」
漆黒の仮面——その下にある表情を窺い知ることは出来ない。
でも、何となく分かる気がする。
彼もまた、“私”との対話を望んでいる。
それは叶わないことだと思っていたからこそ、ヴァニタスは私からの問い掛けに驚いている。
証拠はなくても、そんな気がした。
そこで私は、今まで腑に落ちない彼の行動について尋ねてみることにした。
何らかの意図があったであろう、彼の不可解な行動についてだ。
「貴方は私を殺さなかった。私の息の根を止めようと思えば、それを実行するチャンスは何度かあったはず。それなのに貴方は私を殺さなかった。……どうして?」
ネバーランドで一戦交えた時、私はヴァニタスを倒した直後に気を失った。
意識を取り戻した時、自分の目の前に倒れていたはずのヴァニタスは、なぜか姿を消していた。
キーブレード墓場で、ヴァニタスから奇襲された時もそうだ。
眼帯の男を退けた直後、私はヴァニタスによる不意打を受けた。
あの時は上空からの一撃で気を失ったわけだが、意識を手放す刹那、私にはハッキリとわかった。
あの時、ヴァニタスは“わざと”急所を外したということに。
ヴァニタスが、私との戦いで手心を加えた理由。
何となくではあるが、今なら分かるような気がする。
勝手な想像ではあるが、あれはヴァニタスなりの情けだったのかも知れない。
「ヴァニタス……貴方からはアンヴァースと同じ波動を感じる。だから貴方がアンヴァースと関係があるということも何となくわかるわ。貴方は一体……何者なの?」
立て続けに、私は疑問を口にした。
イェン・シッド様から聞いた『ヴァニタスがアンヴァースの起源である』という件について、敢えて知らないような口ぶりでヴァニタスに尋ねた。
イェン・シッド様のような第三者の言葉ではなく、彼の口から——“彼自身”の言葉を聞きたいからだ。
「何者……か………」
『貴方は何者か?』という問いに対して、ヴァニタスは自分の出自について話してくれた。
彼は、ヴェントゥスの“闇の部分”が意志を持った存在であること。
マスター・ゼアノートの野望に加担して、究極の鍵——χブレードを創り出そうとしたこと。
全てのアンヴァースは、彼の感情から生まれた存在であること。
アンヴァースの件については、これで確信を得た。
ゼアノートと、χブレードの件も然り。
しかし、彼とヴェントゥスが同一人物だったことは初耳だった。
彼が——ヴァニタスが、ヴェントゥスの“闇”だなんて———。
「驚いたか?」
「……ええ。信じられないわ」
「だったら俺の仮面を取ってみろ。嫌でも信じるさ」
ヴァニタスに促されて、私は彼のヘルメットを外した。
ヴェントゥスとは違う黒髪。
そして、金色の瞳。
だが、顔立ち自体はヴェントゥスによく似ている。
彼の素顔を見て、私は確信した。
ヴァニタスが言っていることは、全て真実なのだと。
「貴方の話……本当なのね」
「ああ」
私は、ヴェントゥスの半身と何度も戦ってきたのだ。
もしかすると、ある意味ではヴェントゥスを傷付けてきた——という言い方も出来るのだろうか。
知らなかったとはいえ、複雑な心境になった。
「どうして…こんなことに……」
「さあな」
ヴァニタスは素っ気なく相槌を打つ。
彼とて、この数奇な巡り合わせがどのようにして起こったのか、その全てに納得しているわけではないのだろう。
その時だった。
突然、ヴァニタスの身体から黒い靄のようなものが立ち上がり始めた。
その様子を見て、私は直感した。
ヴァニタスの命の灯火が、あと僅かなのだと———。
「俺もここまでか……」
自嘲気味にヴァニタスが薄く笑った。
彼は、どこか悟りきったような表情で空を見つめている。
空に向けられた金色の瞳は焦点が合わず、視線が虚ろに漂っている。
そんなヴァニタスの姿を見て、私は居ても立っても居られなくなった。
私たちは、まだお互いのことを何も知らない。
まだ、何も理解できていない。
だからヴァニタスとの関係を、このまま終わりにしたくない。
……いや、そんなことすら、今はどうでもいいのだ。
私は、目の前に倒れている少年を救いたい。
彼の荒んだ心と体を、救ってあげたい。
その衝動が、頭で考えるよりも先に、私のことを突き動かした。
「ヴァニタス——今、回復魔法をかけるわ」
「……なぜ俺を助ける?」
不思議そうな顔をしているヴァニタスを抱き起こし、私は魔力の集中を始めた。
なぜ、助ける?
そんなこと、決まっている。
目の前に、救いたい相手がいる——理由はそれだけだ。
「貴方を放ってはおけないわ」
マスター・エラクゥスは、闇は存在してはないものだと言った。
だから、闇の存在に対して、情けは無用だとも言った。
ごめんなさい、マスター。
マスターには、感謝しています。
尊敬もしています。
でも、私はマスターとは違うのです。
師の言いつけを守れない、不出来な弟子でごめんなさい。
マスターから授けて頂いたこの力——今は、彼のために使います。
心の中でマスターに謝った後、私は出来る限りの魔力を集中して回復魔法の詠唱を始めた。
このままヴァニタスを死なせたくなかった。
闇から生じた存在であるヴァニタス——普通の人間とは異なる彼に『死』という概念があるかどうかは分からない。
でも、たとえ闇の存在だとしても、彼には心がある。
そして、命がある。
救える命は救いたい。
今まで何度も剣を交えた相手でも、見殺しには出来ない。
私は、ヴァニタスを救いたい———。
「癒しよ———」
癒しの魔力が淡い緑色の光となって、ヴァニタスの身体を包み込む。
しかし、ヴァニタスの身体には全く効果が無かった。
ヴァニタスの身体は、既に回復魔法を受け付けない状態にまで崩壊が進んでいるということなのだろう。
最早、自分の力ではヴァニタスを救えないのだ。
そのことが悔しくて、悲しい。
「ヴァニタス……」
「気遣いは無用だ。敗者が消え去るのは、いつの時代でも同じなんだからな」
『強がり』…いや『素直じゃない』と言った方が適切かも知れない。
ヴァニタスだって、死が怖くないはずがない。
闇の存在だからとか、そんなことは関係ない。
ヴァニタスは『怪物』ではなく、心を持っている『人間』なのだから。
多分、ヴァニタスは自分の『本当の感情』を相手に伝える術を知らないだけなのだ。
きっと、これまで破壊活動以外の自己表現をしたことがないのだろう。
ヴァニタス——“本当の貴方”は今、何を思っているの?
「アクア……おまえは闇が嫌いか?闇を悪だと思うか?」
「……え?」
私の腕の中で、ヴァニタスはまるで呻くように言葉を発した。
それは、まるで命を絞り出すような声だった。
「おまえはエラクゥスから、闇は存在してはならないものだと教えられてきたんだろう?今でもそう思うのか?」
これは遠回しながらも、私が——光を信奉している私が、ヴァニタスのことをどう思っているのか——という問いなのだろうか?
改めて問われてみると、自分でもよくわからない。
今の私は、闇についてどう思っているのだろうか。
ヴァニタスという人物について、どう思っているのだろうか。
「それは……わからない」
ヴァニタスを抱きかかえながら、私は彼の金色の瞳を見た。
私の顔の真下に、ヴァニタスの顔がある。
こんなに近くで、彼の瞳を見たことは今までなかった。
“闇に堕ちた証”とも呼ばれる、金色の瞳。
少し前までは『闇』や『悪人』の象徴のように思っていたのに。
キーブレードを扱う者として、敵対心を向ける対象でしかなかったのに。
途方もなく邪悪で、禍々しくて、嫌悪の対象でしかなかったはずなのに。
こんな思いを抱くのは、もしかしたら不謹慎なことかも知れない。
光を守護するキーブレードマスターとしては、失格かも知れない。
でも、心は理屈じゃない。
光も闇も関係なく、私は金色に輝いているヴァニタスの瞳が——とても綺麗だと思った。
だから、私はヴァニタスのことを———。
「確かに、私はマスターから闇はあってはならないものだと教えられて育った。でも……闇があってはならない理由なんて……深く考えたことはなかった」
「そうか」
「マスターが『闇は悪いもの』だと言うから、私もそう思い込んでいた。でも『悪いから悪い』と思っていただけで……本当はわからない。テラやヴェンの心にだって闇はあった。だけど、私は彼らのことを『悪』だとは思わない。たとえ心に闇があったとしても……二人は私の大切な友だもの」
ヴァニタスだけじゃない。
テラにも、ヴェントゥスにも、そして私にも——闇はある。
私だって、怒ったり悲しんだりすれば、心の中に闇が生まれるだろう。
それはとても小さな闇に過ぎないだろうけど、それでも闇が存在するという事実に変わりはない。
「誰の心にも闇はあるわ。光を信じている私の心にだって闇はあるかも知れない。だから……何もかも闇が悪いという考えは……もしかしたら間違っているのかも知れない」
マスターが言っていた『闇は悪いもの』であるという教えを、私は鵜呑みにしていた。
マスターの考えが間違っているとは思わない。
しかし、殆ど盲信していたその教えは、あくまでマスターからの受け売りであって、私自身が見出だした結論ではない。
マスターのもとから旅立った後、私は様々な世界を巡った。
その先々で、沢山の人たちに出会った。
そして、色々な体験をした。
頭の中で、そして心の中で、パズルを組み立てるようにして私は考えた。
一つ一つピースを、必死で繋ぎ合わせた。
光について。
闇について。
善悪について。
そして自分だけの『答え』を出すための、最後のピース——今この瞬間、それをヴァニタスが教えてくれたような気がする。
純粋な闇の存在として生まれ、破壊の力に身を委ね、暴れることでしか自分を表現できない『子供』のような少年——ヴァニタス。
彼の存在があったから、私はマスターとは少しだけ違う結論に辿り着いたのかも知れない。
永別
黒い靄が立ち込める勢いが増してきた。
ヴァニタスの身体が、煙のように少しずつ消えていく。
彼に残された時間は、本当にあと僅かしかないのだろう。
彼に伝えたいこと——そして、彼と話したいことはまだ沢山ある。
でも、時間がそれを許さない。
ならばヴァニタスが最期を迎えるその瞬間まで、私は彼の傍に居たいと思う。
それが私にとっての、精一杯の誠意だから———。
「ヴァニタス……貴方が今までしてきた行為は、決して正しいことだとは言えないわ。でも貴方が『悪』なのかどうかは私にはわからない。貴方は私を殺さなかったし、それに……」
「それに……何だ?」
「それに……貴方は自分の生まれについて悩んでいるんでしょう?もし貴方が本当に救いようのない人間なら『闇を悪だと思うか?』なんて疑問は持たないはず」
もし本当にヴァニタスが救いようのない『悪』だとしたら、善悪について疑問を持つこと自体あり得ないだろう。
そのことが、ヴァニタスという人物が絶対悪ではない何よりの証拠であるように思えた。
「貴方は闇の存在である自分自身について、何か思うところがある。だから、闇は善いものなのか、悪いものなのかについて悩んでいる……私にはそんな気がしてならないわ」
闇の存在かどうかなんて、今はもう関係ない。
ヴァニタスもまた、傷付き迷える一人の人間——一人の少年なのだ。
そんな彼を『悪』だと言い切ることは、私には出来ない。
なぜなら、人間とは環境次第でいくらでも変わり得るからだ。
「もし貴方がゼアノートの傍に居なければ……もし貴方がχブレードと関係が無ければ……たとえ貴方が純粋な闇の存在だとしても、私達は敵同士としてではなく、何か別の形で出会っていたかも知れない」
「そう、かもな………」
「もしそうだったら私は貴方とも仲良くなれたかも知れない。こんな風に貴方を傷付けずに済んだかも知れない……」
頭では——いや、理屈ではわかっている。
ヴァニタスとの戦いは、何れも正当防衛なものであったと。
レイディアントガーデンで戦った時も、ネバーランドで戦った時も、そしてキーブレード墓場で戦った時も——。
応戦しなければ、私がやられていた。
だから、私が取った行動は決して間違ってはいない。
でも——だけど———
今、私の腕の中に居るのは、捻くれてはいるけど、とても純粋で———。
そして、繊細で、悩み深い、そして素直になる方法を知らない少年なのだ。
そんな少年を、私は傷付けてしまった。
“対話”というやり方を放棄して、 私は“戦い”という手段を安易に選んでしまった。
そのせいで、彼は今まさに消えようとしている。
そう思ったら、視界が滲んできた。
気が付いたら目から涙が溢れ、頬を伝っていた。
「ごめんなさい……ヴァニタス」
謝っても許して貰えるとは思わない。
それでも謝罪の言葉を言わずにはいられなかった。
出会う度に戦ったりせず、まずは少しでも相手のことを知ろうとする意志が——闇に属する者を理解しようとする気持ちが私にあれば———。
「謝るな。むしろ俺は感謝しているくらいだ。俺はおまえと戦っている時が一番楽しかった。虚しさを忘れることが出来た。自分は生きているって実感できた……」
ヴァニタスの慰めの言葉が胸に染みる。
これは、ヴァニタスなりの気遣いなのだろうか。
もしそうだとしたら、やはり彼が闇の存在だとしても、彼は決して『悪』ではない。
このような言葉を語れるような人間が『悪』であるはずがない。
気が付いたら、ヴァニタスは微笑んでいた。
それはとても穏やかな表情だった。
でも 涙のせいでよく見えない。
貴方の笑顔が、よく見えないよ——ヴァニタス———。
「アクア——おまえと逢えてよかった」
私はヴァニタスを抱き締めた。
せめて、ほんの僅かな時間だけでも——この不器用な少年には、人の温もりというものを教えてあげたい。
そして、人間が持つ温かい心というものを知って欲しい。
真心を、貴方に———。
それが、私からヴァニタスへの最初で最後の贈り物———。
私の胸の中でヴァニタスは黒い靄となり、消えた——逝ってしまった。
その事実を受け止めながら、私は袖で涙を拭い、立ち上がった。
そして、ヴァニタスが残したキーブレードを手に持ち、荒涼とした大地に突き刺した。
そのキーブレードの前で目を瞑り、私は彼の冥福を祈った。
もし———。
もし、いつか私と彼が生まれ変わって逢える日が来たら、私はきっと彼と仲良くなれると思う。
最初は、仲が悪いかも知れない。
喧嘩だって、きっと沢山するだろう。
何度も、何度も、衝突することを繰り返すだろう。
でも最後には、お互いに理解し合える。
そして、誰よりも仲良くなれる。
白色と黒色で染まったキーブレードの前で、私は『もしも』の未来に思いを馳せた。
いつか、また逢える日が来るのなら———。
もしその時が来たら、今度は貴方の傍で———。
実現するはずの無い未来を夢想し、私はその虚しさを噛み締めた。
でも、その“虚しさ”がヴァニタスによって遺されたものだと思うと、それもまた愛おしい感情であるように思えた。
万感の想いを胸に抱いて、私は鎧を纏い、キーブレード墓場を後にした。
《終》
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