逡巡する思考
エントランスの階段を昇った二人は、まず手近な場所から探索を始めた。
客室とも寝室とも取れる部屋もあれば、完全な空き部屋もある。
どこも例外なく部屋全体が埃を被っている。
やはり、生活感などは一切感じられない。
次に、二人は書斎へと足を踏み入れた。
数多くの書物が山積されている。
もしかすると、この館の住民などに関する手掛かりが見つかるかも知れない。
「私、ここも……知っている」
「え?」
「私にはハッキリと分かる。この本棚に、本の並び方。私は“知っている”。間違いないわ」
「だったら、手掛かりになりそうな本のことを“思い出せる”か?」
ロクサスの問い掛けに対して、ナミネは首を横に振る。
「ごめんない。そこまでは分からない。でも、あと少しで…この書斎に来たときの“何か”を思い出せそうな感じがする。」
「じゃあ、この山のようにある本を読むなり探るなりしながら、気長に待とうか」
それから数時間、二人は書斎内の本を読み漁った。
本のジャンルは様々で、特に多いのは歴史絡みの書物だった。
ロクサスはレイディアントガーデン城内の図書室にあった『創世記』を思い出した。
この書斎にある書物は、あの『創世記』をさらに詳しく分析しているようなものが多い。
レイディアントガーデンがどのようにして誕生したか。
統治者である『アンセム』の座を巡り、その度に繰り返された争いについて。
そして、歴代アンセムの所業。
勿論、本を一冊一冊、一字一句読んでいるわけではない。
あくまで本のタイトルや目次などを確認しているだけである。
このような書物に興味があるわけではないが、今は館自体に関わる手掛かりを見付け出すのが先決だ。
ロクサスがそんなことを考えていたときだった。
「紫宛の花……」
「え?シオンの……何だって?」
「紫宛の花に、弟切草。この部屋で教えてもらったんだ……」
ロクサスが振り返ると、ナミネが手元にある一冊の本を見つめていた。
「それは……表紙を見たところ、花の図鑑か?」
「そう……みたいだね」
「“みたいだね”って……中身はまだ見てないのか?」
「見ていないけど、この本を手に取った瞬間に分かったんだ。この本には、紫音や弟切草の絵が載っている。私はそのことを“知っている”……」
「じゃあ、カイリはその本を読んだことがあるんだな?」
「……ええ、きっとそうね」
ナミネの瞳は虚ろだった。
彼女の視線は手元の図鑑らしき本に向けられているが、いまいち焦点が合っていないように見える。
「シオンに、確か、オトギリソウ……だったか?この館の裏庭に咲いていた花だよな?カイリはその図鑑を読んで、花の名前を知ったということか」
「ううん、そうじゃない……と思う」
「は?」
「まだ小さかったカイリは、この図鑑の字を読むことが出来なかった。でも、図鑑の中に、この館の裏庭にある花を、つまり紫宛と弟切草の絵を見つけた」
「まあ、5歳くらいの子供なら字を読めなくても不思議じゃないよな」
「そう。カイリはこの図鑑の字を、花の名前を“読むことが出来なかった”。だから、読み方を訊いたんだ……」
「訊いた……だって?」
「でも……誰に?お祖母ちゃん……ではなかった」
「じゃあ、誰に?」
「誰だろう……思い出せない。でも、誰かが教えてくれたことは“憶えている”。裏庭に咲いている薄紫色の花が“紫宛”であること。黄色い花が“弟切草”であること。それから、花言葉も……」
いつの間にかナミネは目を閉じていた。
手元の図鑑をゆっくりと撫でながら、唇が僅かに動いている。
口から紡がれる言葉は力なく、そして頼りない。
「なぜ裏庭に、紫宛と弟切草が咲いているかも訊いた気がする。いつ、誰が、何のために裏庭に花を植えたのかも」
「カイリは、色々なことを質問したってことか?」
「そうだね。そして、その後で“知った”のは、誰かが花を植えたわけではないということ。ものすごい昔から、気の遠くなるような昔から、裏庭の場所に紫宛と弟切草が咲いていたということ……」
「じゃあ、元々裏庭の辺りに花がたくさん生えていて、後から人の手で花壇の形にしたってことか?」
「多分、そういうことだと思う」
「誰が、そうだと言ったんだ?」
「それが思い出せない。顔も声も、全然思い出せない。“憶えて”いるのは、このことを教えてくれた人は、カイリのお祖母ちゃんではなかったということだけ」
「そうか……」
少しして、ナミネは今すぐには思い出せないと踏んだのか、手近な書物に目を通す作業に戻った。
それを見て、ロクサスも同じく手元の書物に視線を戻した。
紫宛と弟切草———。
先ほどのナミネの言葉から察するに、裏庭に誰かが意図的に植えたものではなく、元々は花が群生していた場所を『庭』という形に整えただけなのだろうか?
それならば、裏庭に咲いていた二種類の花は、館の主の意向で残されたのか。
いや、ナミネは“遠い昔から”花があったと言っていた。
遠い昔とは、もしかしてこの館が建てられる前からか——?
ロクサスは、たかだか花如きのために思考を巡らせている自分自身に驚いていた。
花が裏庭にあったことなど、大した意味は無いに決まっている。
館主の手掛かりになりそうな要素でもない。
そんなものがナミネの記憶を呼び覚ます切掛けになった。
そう、想定外の幸運であっただけだ。
そうであるにも関わらず、なぜ花なんかがここまで気になるのだろうか。
裏庭でナミネはこう言った。
紫宛の花言葉は『追憶』——そして『君を忘れない』———。
弟切草の花言葉は『秘密』——そして『復讐』———。
自分には、忘れたくない記憶がある。
なおかつ、忘れてはいけない記憶がある。
自分には、許せない相手がいる。
なおかつ、許してはいけない相手がいる。
だから、こんなにも紫宛と弟切草のことが気になってしまうのだろうか。
紫苑の花——シオン——『君を忘れない』———。
その言葉の意味について考えながら、ロクサスは書斎での探索作業に没頭した。
歴史関係の本だけでなく、何かの科学的な書物も散見されるようになってきた。
特に気になるのは、体の仕組みに、心の仕組み、魂の仕組みについて記した本である。
体について研究した本の存在は、医療などの観点から見ればそれほど不思議なものではない。
しかし、『心』や『魂』について研究した本があるということは、やはりこれらの書物はゼアノートと関係があると捉えるべきだろうか?
ロクサスは心に関する本を一冊手に取り、著者名の欄を探した。
文字は古ぼけていて判読が難しい。
しかし、その名前は読み違えようがなかった。
著者——『Ansem Radiant』———。
「アンセム——レイディアント?」
その名前には、聞き覚えがあった。
レイディアントガーデンの初代『アンセム』にして、この世界の指導者として選ばれた傑物。
そして、『創世記』という本の著者。
その人物のフルネームがそうだったはずだ。
「ロクサス、それは?」
「ああ、この世界の初代アンセムが書いたものらしい。心について書かれてある」
「初代ということは、遠い昔の人だよね?そんな昔の人が書いた本がまだ残っているなんて……」
「ああ、俺も驚いた。古ぼけていて殆ど読めないけどな。でも、城の図書室にも『創世記』って本があったし、初代アンセムが書いた別の本があってもそこまで不思議じゃないさ」
「それは、何についての本?」
「どうやら心についての研究本らしい。大昔にいた初代アンセムも研究者だったのかもな」
「何のために心の研究をしていたのかな?」
「さあ……そこまでは分からない」
しかし、ナミネと会話をしながら、ロクサスの中で初代アンセムの人物像が徐々に形を成してきた。
キーブレードを持たないながらも、キーブレード戦争を生き抜いた人物。
その後、自らの努力によって世界の復興に尽力し、周囲の人望を集め、ついには世界の統治者という立場に押し上げられた人間。
その傍らで、本職か趣味かは不明だが、心についても研究していた。
以上のことから、初代アンセムは様々な分野に精通している人物であったことが窺える。
あくまで、特別な力を持たない『普通の人間』——それがロクサスの中における初代アンセムであった。
「何だか……凄いよな」
「凄い?その、初代アンセムって人が?」
「何か特別な力があるわけでもないのに、周りから信頼されて、統治者にまで成ってしまうんだからさ。“普通”ではない俺とは正反対だ」
「ロクサス……」
数分間の沈黙を経て、今度はナミネが口を開いた。
「ロクサス、私も見つけたよ。この館の手掛かり」
ナミネはロクサスにレポート用紙を手渡した。
「これは?」
「読んでみて」
ロクサスはナミネから手渡されたレポート用紙に視線を向けた。
新たな手掛かり
●Report No.2:ハートレスの人工的合成
師・アンセムの目が届かない場所で、心の闇に関する研究は継続している。
特に、城の地下に設けられた研究施設では、連日に渡って心に関する様々な実験が行われていた。
その過程で、多くの犠牲者も出た。
実験に耐えられず、心が壊れてしまった者。
感情を失い、人形のようになってしまった者。
記憶が欠損し、自分が何者であるかを忘れてしまった者。
被験者たちの見るに堪えない姿が、時々ではあるが夢の中に出てくる。
悪夢の登場人物である彼らは口を揃えてこう言う。
『憎い』と———。
研究施設の設立について、師・アンセムに最も強く進言したのは自分である。
実験の犠牲となった者たちが自分と、自分以外の弟子たちを憎むのは当然のことだ。
志願者のみを被験者としているとはいえ、彼らは実験による影響で大切な『何か』を失ってしまった。
命、心、肉体、記憶、感情——その何れか奪われた者たちの怨念が、夢の中に現れているのだろうか?
それとも、悪夢の正体は自分自身の心の闇なのだろうか?
昨日、ゼアノートの呼びかけが端緒となり、心の闇が具現化した怪物——『ハートレス』なる存在について議論することとなった。
ハートレスを『生物』と呼んでも良いのだろうか?
その点については意見が別れているが、ハートレスは実験により精神崩壊した被験者の心の闇が実体化したしたものである——その認識は弟子仲間の間でも変わっていない。
しかし、今朝の早朝会議でゼアノートは『物理的に何もない状態からハートレスを人工的に生成することは出来ないだろうか?』——と言い出した。
ハートレスを人工的に生成する——それは即ち、心の闇を人の手で創造するということだ。
さらに、ゼアノートはそれに関連してあまりにも奇抜なアイデアを出してきた。
『ハートレスを生成するメカニズムを応用してキーブレードを創り出すことは出来ないだろうか?』と———。
キーブレード——伝説の鍵。
これまでの被験者達のデータを詳細に研究した末に、弟子仲間6人で完成させた『心の闇を無から生成する装置』を改良すれば、ハートレスを人工的に生成することも不可能ではないだろう。
しかし、キーブレードの起源も原理も知らない我々が、どうやってハートレスの生成技術を『鍵』として応用しようと言うのだろうか?
そして、ゼアノートは『鍵』についてどこまで知っているのだろうか?
ゼアノートは記憶喪失状態であると聞いていたが、過去の記憶を取り戻したのだろうか?
それも、伝説の存在とされる『鍵』に関する記憶を——。
一応、ブライグが言うには『鍵』のサンプルはあるらしい。
城の最下層に設けられた『眠りの部屋』——あの場所に安置されている『鍵』を指しているのだろうか?
ゼアノートはあまりに優秀すぎるためか、他の5人の理解を越えている部分がある。
これ以上、心の闇を研究することは危険ではないだろうかとも思う。
しかし、この研究は最期まで遣り遂げなければならない。
仮に自分が今ここで研究から身を退いてしまったら、危険な実験にわざわざ志願してくれた犠牲者たちに顔向け出来ない。
何より、これは自分自身で選んだ道である。
この世界——『輝ける庭』の一員として、自分は役に立ちたいのだ。
●Report No.3:心の闇を持たざる者
先日、ようやく『ハートレス合成装置』が完成した。
試験的に装置を作動させた所、何の問題もなくハートレスが発生した。
装置によって合成されハートレスには識別のためマーキングを施し、さらに彼らの呼称を『エンブレム』と定め、その行動を観察してみた。
結果、自然発生したハートレス——『ピュアブラッド』と比較して行動面においては殆ど差異が無いことが判明した。
つまり、実験は成功したのだ——僕達は『エンブレム』の生みの親とも言うべき存在になったのである。
ハートレス関連の実験はその後も続き、生きている人間を装置内のポッドに入れ、人間をハートレスへと変化させることまでも可能になった。
実を言うと、最近はこのような非人道的に抵抗を感じなくなってきている。
もしかすると、これは自分自身の心の闇による影響なのだろうか——。
ある日、装置内のポッドでハートレスへと変化しない者が現れた。
装置を何度稼働させようとも、その人間——いや、少女はハートレスに変化することは無かった。
後日、その少女——『カイリ』の心を検査してみたところ、驚くべき事実が判明した。
検査による測定結果から、カイリの心には『闇』が無いということが判明したのである。
如何なる人間でも心に闇が存在する以上、検査をすれば『心の闇』の測定値がデータとして検出される。
そして、その測定値は決して『0』にはならない。
ところが不可思議なことに、カイリの『心の闇』の測定値は0という結果が出た。
『心の闇』の測定値が0——それは即ち、心の闇を持たないことを意味している。
前例が無いカイリの存在は僕達の間でも話題になり、彼女は特別な存在として師・アンセムですら知らない森の奧深くにある研究施設へと隔離された。
研究施設とはいえ、表向きは普通の洋館である。
しかし、実際には洋館の地下に研究のためのスペースが設けられている。
僕はカイリに一番年が近いという理由で、エヴェンから彼女の監視、及び世話役を半ば強引に命じられた。
同地で殆ど軟禁に近い状態でカイリの観察を続けてはいるが、少なくとも自分の目にはカイリは普通の少女にしか見えない。
彼女は一体、何者であるというのだろうか?
カイリの観察を開始してから数週間後、ゼアノートが洋館地下の研究施設を拡大してある実験を行いたいと言ってきた。
どうやらハートレスを生成する装置を応用して『鍵』の試作品を創るつもりらしい。
機械仕掛けの『人造鍵』を———。
「ナミネ、これは……」
「カイリが、この館に居た頃に書かれたものだと思う」
「…そうだな。ゼアノートがこの世界の研究員として行動していた時期とも一致する」
「カイリは、実験の被験者としてここに連れて来られたんだわ」
手元のレポート用紙は、ロクサスとナミネに数多くの情報を与えた。
間違いない——今から遡ること10年以上前、幼いカイリは確かにこの洋館に居たのだ。
それならば、ロクサスが単独で館内を捜索した際に『Kairi』という文字の刺繍が入っていたことも説明がつく。
この洋館はカイリの生家などではない。
どのような研究が行われていたのか定かではないが、この洋館そのものがゼアノートたちにとっての『研究所』だったのだ。
「ねえ、ロクサス」
「何だ?」
「カイリのこと以外にも、色々なことが書かれているよね」
「ああ。そうだな……」
とりわけロクサスが気になったのは『鍵』——つまりキーブレードに関する記述だ。
機械仕掛けの『人造鍵』——一体それは何なのだろうか?
その正体については想像の域を出ないが、ロクサスは直感していた。
それは間違いなく、世界に災いをもたらす存在であることを———。
「このレポートを書いたのは、きっとあいつだな」
「あいつ?誰なの?」
「ゼアノートと同じく賢者アンセムの弟子で、カイリに最も年が近いやつ。それは一人だけだ」
「それって、もしかして……」
ロクサスは機関員だった頃の記憶を辿った。
短い付き合いではあったが、ノーバディであるにも関わらず、妙に礼儀正しい態度が印象に残っている。
幻術を操り、機関内では『策士』と呼ばれていた青髪の青年———。
「このレポートを書いたのは、人間だった頃のゼクシオン——いや、イエンツォだ」
※第16話:未定
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