語りかける声
自分の体が——そして意識が、暗く冷たい淵へと沈み込んでいくのがわかる。
何も無く、誰も居ない——そんな場所へと堕ちていく感覚だった。
もうじき、こんな風に何かを感じるも考えることも出来なくなる。
存在することすら許されないノーバディが消滅していく時、こんな風に感じるのかもしれない。
(散々な目に遭ったな)
前後左右も分からない、自分が立っているのか座っているのかも分からない空間で、誰かの声が聴こえた。
それは、決して空耳などではなかった。
(人間とは自分勝手なものだな。自分たちが困っている時だけ誰かに泣いてすがり、事が済めばすぐに掌を返す)
それは、淡々としている口調だった。
それでいて恨み言のようであり、なおかつ人間の本質を突いた口振りでもあった。
(自分たちとは異なる存在を認めずに差別する。まさに人間の得意技だ。そうは思わないか?)
「ああ……俺もそう思う」
闇の中に浮かんでいるロクサスは目を開けた。
視界は暗く、これでは目を閉じている状態と何ら変わりはない。
フワフワとした現実味の無い感覚が、ロクサスの体を支配している。
「俺もあのダスクたちも……一体何のために頑張ったんだろうな」
(それは自分が一番よく知っているはずだ)
「自分が思ったままに……“心”のままに動いたから……なのかな?俺もダスクたちも……“心”なんて無いのにな……」
(しかし、目の前にいる人々を救おうとする“心”は、人間たち自身によって否定された。それどころか、命の恩人を化物扱いする始末だ。理不尽極まりない話だ)
「……本当だよな」
ロクサスは、闇の中から響いてくる声に頷いた。
時間の経過と比例して、悲しみは怒りへと変化していくのが自分でもよく分かった。
「ノーバディだからって……どうして俺がこんな目に遭わないといけないんだろうな」
(世界の秩序によって、ノーバディは存在してはならない“異端の存在”として定められているからだ)
「……腹の立つ話だな」
(しかし、真に世界の秩序を乱しているのは、ノーバディではなく人間の方ではないか?ハートレスもノーバディも、元の存在は全て人間だ。その人間が一方的にノーバディを迫害するのは筋違いというものだろう)
「そうかも……しれないな」
(ノーバディも、ハートレスも、人間を映す“鏡”だ)
「……鏡?」
(人間の“心の闇”はハートレスとして、人間の“本来の姿”はノーバディとして世界に現れる)
「本来の……姿か……」
ロクサスはソラのことを思い浮べた。
罪を憎んで人を憎まず——という表現がピタリと当てはまる『もう一人の自分』。
何から何まで、自分とは正反対の『自分』。
「俺がソラの“本来の姿”な訳がない。ソラが俺の“本来の姿”であって……俺はただの……」
———脱け殻だ。
(それはどうかな?)
「………え?」
(ロクサスよ、現実を認めるな。現実と戦え)
「……戦え、だって?」
(全ての面において、ノーバディはオリジナルの存在を凌駕できないとでも思っているのか?それは間違いだ。ノーバディにはオリジナルの存在にはない能力が備わっている。それは即ち……)
聴こえていた声が、段々と小さくなっていく。
自分に語り掛けてくる声の主は、一体誰なのかだろうか?
ロクサスは気になって仕方がなかった。
「なあ、あんた……誰なんだ?」
(私か?私は……“世界を変えたいと願っている者”だ)
それは、あまりに抽象的な言い方だった。
いや、違うんだ。
俺が知りたいのは、そんなことじゃない———。
「あんたの名前を……教えてくれ……」
(いずれ、な)
その瞬間、視界が闇から光へと変化した。
レオンからの謝罪
窓から差し込む光の眩しさに、ロクサスは目を細めた。
続いて自分の目に映ったのはどこかの天井だった。
「ん………」
ロクサスは自分がベッドの上で横になっていることに気付いた。
昨晩、雨の中で涙を流した後の記憶が次第に甦ってきた。
肉体的にも精神的にも疲弊しきっていたロクサスは、ナミネによってこの部屋——レイディアントガーデン城内の仮眠室に案内されたのだ。
その後、このベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちた。
先ほどまで自分に語り掛けていた声は、一体何だったのだろうか?
確かに、ほんの数分前まで自分は眠っていたはずだ。
しかし、ロクサスの耳に聞こえてきた声は、夢にしては妙にリアルで——そして生々しいものであった。
ロクサスは部屋の壁に取り付けられている時計を見た。
時計の針は、ちょうど午前11時を回ったところだった。
思ったよりも長い時間眠っていたようだ。
ロクサスはベッドから起き上がり、壁に掛けてあるコートを手に取った。
コートに袖を通しながらふと窓の外を見た。
昨晩の雨とは対照的に、天気は快晴の様相を呈している。
しかしながら、晴天の青空とは逆にロクサスの気分は憂鬱そのものであった。
理由は勿論、一つしかない。
そんなこと、問うまでもない———。
陰欝な気分を少しでも紛らわせようと思い、ロクサスは城の外に出た。
明るい太陽の下に黒いコートという服装は、あまりに似付かわしくない。
その事実がより一層ロクサスの胸を締め付ける。
取り留めもなく歩くロクサスは、いつの間にか『逆巻く滝』に立っていた。
ソラとリクが初めてホロウバスティオンに辿り着いた際に降り立った場所である。
近くのモニュメントの上に腰を下ろし、城の外観を眺めた。
城の方から誰かが近づいて来るのが目に入った。
人影は二つ。
一人はリク、もう一人の男には額に大きな傷がある。
傷のある顔の男——彼はレイディアントガーデン再建委員会の委員長的存在——『レオン』という名の男であった。
レオンはロクサスの前に立ち、右手を差し出してきた。
「俺の名はレオン。昨日の晩、街を襲ったハートレスたちを倒してくれたことについて、まずは礼を言いたい。ありがとう」
ロクサスはレオンの手を取ろうとはしなかった。
“普通の人間”と気安く握手を交わす気にはなれなかったからだ。
ロクサスは感情の宿らぬ目で、レオンのことを静かに見ている。
「……昨日の件についての一部始終は街の住人たちから聞いている。ハートレスを倒した君が、彼らからどういった仕打ちを受けたのかも。この街の再建委員会を代表して……いや、レイディアントガーデンの人間として、君に謝りたい。本当にすまなかった」
レオンがロクサスに向かって深々と頭を下げた。
レオンに非は無い。
そして、ロクサスに対して頭を下げる義理はあっても義務はないはずだ。
頭の中ではそんなことを考えつつ、ロクサスはレオンが頭を下げ、そして顔を上げる様子を“ただ”見つめていた。
「……君が何者なのかは、ソラとリクから詳しく聞いている。しかし、俺個人はそんなことは些細なことだと思っている。まして、君はこの街の人々を救うために剣を振るってくれた。確かに、何も知らない人間が君に酷い仕打ちをしてしまったことは事実だ。俺たちを許して欲しいとは言わない。ただ……たとえ君が何者であろうと、君に感謝している人間もいるということだけは心に留めておいてほしい」
レオンはリクに『後は頼む』と言い残し、住宅街の方向へと去っていった。
リクはロクサスの肩を叩き、地面に腰を下ろした。
「気にするな……と言っても無駄か?」
「……ああ」
「昨日は、おまえ一人だけが何もかも背負い込む形になってしまったな。俺も、ナミネも、何もしていない。ハートレスを倒したのも、街の人たちを守ったのも全部おまえだ」
「……悪者扱いされたのも俺だった」
「……そうだな。でも、何でナミネにはそのことを自分の口から伝えなかったんだ?ナミネは、おまえのことを誰よりも理解しているはずだろ?」
「理解とか、そういう問題じゃない」
額の傷に痛みが走った。
傷口は既に殆ど塞がっている。
しかし、昨晩と同様の痛みがロクサスを苛ませる。
誰かに話して気が楽になるのなら、とっくにそうしていた。
それをしなかったのは、誰かに話を聞いてもらったとしても、この痛みは消えないと頭のどこかで悟っていたからだ。
「ロクサス、憂さ晴らしでもしたくないか?」
「……憂さ晴らし?」
「やりきれないんだろう?ナミネに何も話せないくらいに。一々頭で考えてしまう。だったら運動でもしてみないか?」
「何だよ、運動って」
リクは立ち上がり、ある方向を指差した。
その方向とは、昨夜ダークサイドの群れが飛来してきた方向であった。
「この先にハートレスの発生源みたいなものがあるらしい。もしかしたら、昨日アンセムの研究室で見たハートレス製造装置みたいなものがあるのかも知れない。ただ、この世界の人間も詳しくは知らないエリアみたいでな。それで、レオンからそのエリアに直接行って様子を調べてみてくれと頼まれたんだ」
「……運動って、リクと一緒に散歩するって意味か?」
「ああ。襲い掛かってくるハートレスと戦いながらな」
ロクサスは溜息を吐いた。
「…いいよ。何かに欝憤をぶつけないと、気がおかしくなりそうだし」
その後、ロクサスはリクに言われるまま歩いた。
レイディアントガーデンの未開の地。
人造ハートレスの製造装置が、今でも稼働しているかもしれない場所。
普段なら好奇心が疼かない事も無いのだろうが、今のロクサスにとってそんな事などどうでもよかった。
とにかく暴れたい。
怒りをぶつける相手が欲しい。
この理不尽な怒りを、無我夢中でぶつけられる相手を———。
自我の行方
「薄暗い森だな。生き物の気配なんか感じやしない。ハートレスが身を隠すには絶好の場所ってわけだな」
「……リク、ハートレスはまだ出てこないのか?」
その森は、逆巻く滝の城門からかなり離れた場所にあった。
人間はおろか、小動物の類の気配さえも感じられない。
まだ昼間だというのに妙に薄暗く、高い木々に起因する見通しの悪さと相まって不気味な気配を醸し出していた。
雨上がりのせいか、湿気に富んだ空気が肌に生温い。
「……気味の悪い森だな」
おそらく、この森に足を踏み入れてから結構な時間が経っているはずである。
しかし、いくら歩いてもハートレスが襲ってくる気配は無かった。
それどころか足元の雑草や木の根に邪魔されて、足を進めることさえ難しくなってきた。
生い茂る木々に邪魔されて、視界もさらに悪くなってきている。
「おかしいな。昨日ハートレスが飛来してきた方向が考えて、多分この辺りが怪しいと踏んでたんたんだが……」
「なあ、リク。“この辺り”と言ったって、ただ大きな木が生えてるだけじゃないか。ハートレスの気配なんて、少しも感じやしない。確かに、この気味の悪い景色や雰囲気はいかにもハートレスに好まれそうな場所だとは思うけどさ」
空気が震えるような、ハートレスに狙われる感覚。
それをロクサスは感じなかった。
変わりに感じるのは、自分の両足に蓄積されていく疲労。
そして、コート越しに感じられる生暖かい空気。
不快極まりないとは、まさにこのことだった。
「ハートレスは人間を……特にキーブレードを持つ者を優先的に狙うはず。それなのに、なぜ襲ってこない……?」
リクが独り言を呟く中、ロクサスは無言で歩き続けた。
“ハートレスはキーブレードを持つ者を優先的に狙う”——か。
(ハートレスにとって、キーブレードは邪魔なものらしい——だから持ち主のおまえは狙われる)
(俺…こんなの要らないって……)
(キーブレードが持ち主を選ぶんだって。あきらめなさい!)
(災難だったな)
ふと、ソラであった頃の記憶がロクサスの脳裏に浮かび上がってきた。
それは、トラヴァースタウンでソラが初めてレオンたちに会った時の記憶だった。
あくまで、“夢”という形で得た記憶ではあるが。
(キーブレードの勇者になったら子供の遊びはおしまいか?)
(世界を救うことの出来る本当の勇者だけがキーブレードを使いこなせる)
(心?そんな脆いもの何の役に立つ?)
記憶の中に現れたリクの表情はどこか欝屈としており、今自分の隣を歩いている少年とは似ているようで全く違うような人物のように思えた。
「なあ、リク。どうしてハートレスはキーブレードを持つ者を襲うんだ?」
「ハートレスはキーブレードのことが嫌いだからさ」
「真面目に答えてくれよ……」
「はは…冗談さ。ハートレスがキーブレードを持つ者を襲うのは“キーブレードで世界の扉を閉められると二度と世界の心に触れられなくなる”から……だそうだ」
「“だそうだ”って……それってアンセム……いや、ゼアノートが書いたレポートの中身そのままじゃないか」
「ああ、その通りだ。俺たちのようなキーブレードの所有者は、ハートレスの目的達成の妨げになる。ハートレスはそのことを本能的に知っているから、俺たちは奴らに狙われる。そうは言っても、正直よく分からないな」
「何だって?」
「ハートレスが心を求めるのは、人間が食事を摂るのと同じ、本能的な欲求さ。俺たちがいると、奴らは食事が出来ない。“世界の心”というご馳走にもありつけない。だから、食事を邪魔する俺たちが欝陶しくて仕方がない。その程度の理屈さ。ハートレスが本当は何を考えて行動してるかなんて、ハートレスじゃない俺には到底分からない。まあ、分かりたくもないけどな」
「本能……か………」
ハートレスの生態には未だに謎が多い。
現在、ハートレスの行動原理について最も有力視されているのは、ゼアノートが書き残したレポートのみである。
尤も、そのレポートは幾多の非人道的な実験と研究の末に生み出されたものではあるが。
ゼアノートは、類い稀な頭脳の持ち主であった。
そのことを賢者アンセムも認めていたのは周知の事実である。
賢者アンセムが遺した真のレポートによれば、その優れた頭脳ゆえにゼアノートは人の道を踏み外してしまったという。
ならば機関の指導者であったゼムナスも、ゼアノートと同様に卓越した頭脳を駆使してキングダムハーツを創造しようとしたのだろうか?
少なくとも、ゼムナスが頭脳的に長けていた——という印象をロクサスは持っていなかった。
そもそも、ゼムナスと直接会話したことは殆ど無かった。
ロクサスが機関に所属していたのは約1年間であったが、ゼムナスと顔を会わせるのは、せいぜい機関員総出の会議の時のみであった。
確かに、ゼムナスはとてつもない実力者だった。
その実力を以って、我の強い機関員をまとめあげることが出来る唯一の人物であったことは間違いない。
しかしロクサスにとって『頭脳派』という言葉から連想されるのは、氷を操る科学者と、幻で相手を惑わす策士の二人だけであった。
この二人とは短い付き合いであったが、とりわけ策士の方——No.6のゼクシオンとは何度か言葉を交わす機会があった。
(何でハートレスはキーブレードを持つ者を襲うんだ?)
(実は、ハートレスについて分かっていないことはまだまだ多いのですよ)
(ふーん…)
あの時のゼクシオンは、自分との会話に付き合うのが煩わしかったため、適当なことを言って自分のことを撒こうとした。
ロクサスはそのように思い込んでいたのだが、実はそうではなかったのかも知れない。
ゼムナスやヴィクセン、ゼクシオン程の頭脳の持ち主ですら、ハートレスの秘密を完全には解明しきれなかっただろうか。
「賢者アンセムが健在だった時代に、ハートレスの研究をしていたのは合計で6人。アンセムの弟子であるゼアノート、ブライグ、ディラン、エヴェン、エレウス、イエンツォだ。ゼアノートのハートレスは、ロクサスも知っている通りソラによって倒された後も、俺の中に留まり続けている。残留思念のような形でな。俺が自分を見失わない限り、二度と俺の身体を操ることは出来ないだろうがな」
「他の5人のハートレスは、今は何処にいるんだろう?」
「それは俺にもわからない。この世界にいるのか、他の世界にいるのか。ゼアノートのようにハートレスになった後も自我を保ち続けているのか、それさえもな……」
「ハートレスになっても自我を保ち続けていられたのは、ゼアノートとソラだけじゃなかったのか?」
「今のところは、そうかも知れないな。ただ、俺はこの話をアクセルから聞いただけだ。あいつが機関から追われる立場になって、少しばかり手を組んでいた頃にな。だが…もし……」
「もし?」
「アクセルにも真実が伝えられていなかったとしたらどうだ?」
「どういう事だよ?」
「ハートレスとなった後で自我を保っていられるかどうかなんて、ハートレスになった経験が無ければ分かるはずもない。ゼアノートは実体の無い思念体のようになり、ソラは見た目こそハートレスのようになったものの、その後は一目散にカイリの後を追い掛けたそうだ」
ロクサスは以前、ハートレスになった時のことをソラに訊いたことがあった。
しかし、その質問に対するソラの回答は“よく覚えてないや”の一言のみであった。
「まあ、こんなことをいくら考えたところで荒唐無稽だな。俺たちの役目は、人々を苦しめ脅かすハートレスを倒す。それだけだ」
リクもソラに負けず劣らず、正義感が強い。
だが、果たして今の自分はソラとリク同様にハートレスを倒すことに使命感を感じるかと言えば、全くそんなことはない。
少なくとも“普通の人々”のために剣を振るおうという気持ちはない。
今自分がハートレスと戦いたいと思っているのは、あくまで憂さ晴らしが目的だ。
正直な話、恩を仇で返す連中のことなんてどうでも良かった。
「何だ?あれは……」
リクの言葉を受けて、ロクサスは顔を上げた。
視線の先には、何かの建造物のようなものが見えた。
薄暗い森の中に、一軒の大きな洋館を見つけたのだ。
洋館の規模は大きい方で、トワイライトタウンの幽霊屋敷と丁度同程度である。
しかし、そんなことは二人にとってはどうでもよかった。
洋館を囲んでいる外壁の門に、ノーバディのシンボルである機関の紋章が描かれていたからである。
【第7話:予期せぬ発見】へと続く
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