“もう一人の自分”を想って
ナミネは城の一室から黄昏色の空を眺めていた。
レイディアントガーデンの空は元々赤紫色であり、太陽をハッキリとは視認できない。
そのため、夕空の色も他の世界とは若干異なる。
今朝ナミネが目を覚ました時、ロクサスはまだ眠ったままであった。
単純な疲れ以外にも精神的なショックが大きかったのか、ロクサスは中々起きなかった。
ナミネはロクサスのことが心配だった。
昨夜の出来事をリクと共にレオンから説明された時、ナミネは心底悲しくなった。
街に住む人々からロクサスが受けた仕打ちは、あまりに酷いものであった。
世界の秩序を乱すノーバディとしてではなく、一人の人間として生きようと頑張っている者にとって、この事実は堪え難い痛みをもたらした。
そのことが悲しくて仕方なかった。
ロクサスが起きてこないため、午前中は特に目的も無く街を散策してきた。
市街地ではハートレス達の被害が顕著に見られた。
幸いなことに、被害者たちは皆軽傷であり、無傷の市民達は再建委員会の指示に従って街の復興作業に励んでいた。
その様子を見ながら、やはり人間とは良いものだなとナミネは思った。
傷付いたときに助けてくれる者がいるだけでも、ハートレスやノーバディとは大違いである。
ナミネは市街地の商店街を歩いているうちに、何となく懐かしいような気分になった。
もしかしたら、カイリの記憶——いや、厳密には自分の中にあるカイリとしての『意識』が、このような感情を喚起しているのかもしれない。
ナミネ自身にはカイリの記憶は無い。
しかし、カイリの意識と繋がっている部分は、確実に存在しているのだ。
幼い頃のカイリは、この商店街によく来ていたのだろうか———。
ナミネにはカイリとしての記憶が無い分、幼少期の感覚というものが具体的に想像できない。
勿論、幻の記憶を他者の中に描き出したり、逆に記憶を読み取ることは出来る。
しかし、それを自身の感覚として感じることは出来ないのだ。
何となく懐かしいような気分になるということは、少なくともカイリは、この商店街を嫌いではなかったのだろう。
ナミネはそのように予想した。
不快な感情を一切抱くことなく、不思議と穏やかな気持ちになれる———。
幼いカイリにとって、この商店街は心休まる場所だったに違いない。
そこまで思考を巡らせたところで、ナミネはカイリの“過去”について無性に知りたくなった。
カイリは何を想って、幼少期を過ごしたのだろうか———。
カイリ本人でさえ覚えていない、忘却の彼方へと追いやられた記憶。
そして、それはカイリの分身であるナミネにも窺い知れないものでもある。
カイリの記憶は、カイリだけのものなのだ。
帰り道の途中で、ナミネはアイス屋に寄り、シーソルトアイスを買った。
ロクサスに食べてもらおうと思い立ったからだ。
あまり知られてはいないが、シーソルトアイスの発祥地とは、実はこのレイディアントガーデンなのだ。
街の子供達から最も人気だったのは、昔からシーソルトアイスであったという。
もしかしたら、かつてカイリも食べたことがあったのかも知れない。
ナミネがシーソルトアイスを持って城に戻った時、ロクサスの姿は無かった。
どうやらリクと共に何処かへ出かけてしまったらしい。
ナミネは少々落胆しつつ、レオンに案内されながらアンセムの研究室へと向かい、同地に備え付けられている冷蔵庫にシーソルトアイスをしまった。
本来は真理を追究するための場所である研究室に冷蔵庫とは、あまりお目にかかれない組み合わせだなとナミネは思った。
ちなみにだが、その冷蔵庫はかつて賢者アンセムがアイスの保存用として購入したものらしいとレオンから聞かされた。
そう言えば、トワイライトタウンの幽霊屋敷にもアイス専用の冷蔵庫があったな———。
賢者アンセムやリクと共に幽霊屋敷で過ごしていた頃の記憶が、ナミネの脳裏を過った。
復讐鬼と化し、ディズと名を改めた後でも、アンセムはシーソルトアイスを愛し続けた。
人間とは、自分の大切な拘りを簡単には無くしたりはしないということなのだろう。
ナミネはアンセムの研究室で本を読みながら、ロクサスとリクの帰りを待った。
研究室には様々な本があり、難解な内容のものも多かったが、中々興味をそそられるものもあった。
『人はなぜ恋をするか』『シーソルトアイス大全』など、雑学的な本も少なくない。
カイリとは対照的に、元々あまり活動的ではないナミネは読書が嫌いではない。
男性と女性とでは、恋に落ちる過程が異なるといった学術的な文章を目で追いながら、ナミネは二人の帰りを待った。
ロクサスがこの本を読んだら、一体何と言うだろうか。
いや、ロクサスなら『シーソルトアイス大全』にしか興味を示さないかもしれない———。
そんなことを考えながら、ナミネは持て余した時間を読書に費やした。
日も暮れた頃、ロクサスとリクは帰ってきた。
ロクサスは昨日の一件もあって、疲れが溜まっているのか口数が少なかったものの、自分達が今まで何をしていたのかについてナミネに説明した。
話を聞くところによると、街外れの森の奥にある洋館を調べてきたらしい。
それだけならナミネも特に驚かないのだが、例の洋館がノーバディにしか立ち入れない結界に包まれていたという事を聞かされた時は流石に動揺した。
「気味の悪い屋敷だったよ。色々な意味で」
ロクサスはそれだけを言うと、城の奥へと消えていった。
疲れている様子だったので、昨日泊まった客室に戻ったのかも知れない。
ここは一人にしてあげた方が良いのかも知れない——と、ナミネは思った。
ナミネとリクは、アンセムの研究室でロクサスが持ち帰ってきたレポートをテーブルの上で広げた。
ナミネの目から見てもレポート用紙は古ぼけており、かなり昔に書かれたものであることは容易に推察できた。
「ナミネ、どう思う?」
リクがナミネに尋ねた。
「文面から察するに、このレポートは賢者アンセムの弟子が書いたものであることは間違いない。そして、書き手は少なくともゼアノートではない。まあ、書き手のことはいくら考えても仕方ないが、気掛かりなのは……」
「“人工的に心の闇を創り出す装置”……って部分だよね?」
「ああ。この“人工的に心の闇を創り出す装置”とは、おそらく“人工的にハートレスを創り出す装置”と指していると考えてまず間違いないだろう。このレポートが書かれた時期には装置自体はまだ完成していなかったみたいだけどな」
「じゃあ、人造のハートレス……“エンブレム”が生まれる前ってこと?」
「レポートには、王様がレイディアントガーデンに来たってことも書いてある。多分、賢者アンセムの弟子達が危険な研究を始めた時期だろうな。その後に完成したのが、この研究室の奥にあるハートレス製造施設だろう」
「でも、どうしてこのレポートが森の奥の洋館にあったのかな?」
「それは分からない。そして、もう一つ気掛かりなことがある」
リクは例の洋館内に『Kairi』と刺繍が入った熊のぬいぐるみがあったことを話した。
ナミネはその話を聞いて絶句した。
なぜ賢者アンセムの弟子が書いたと思われるレポートと、幼少期のカイリの私物と思しき物が、同じ建物の中にあったのだろうか?
いくら考えてもナミネにはわからなかった。
「正直言って、訳がわからないだろ?俺も同意見だよ。ただ、あの洋館はもう一度調べてみる必要がある。もしかしたらまだ何か秘密があるかも知れないからな」
「でも、その洋館ってノーバディでなければ入れない結界があるんじゃ……?」
「問題はそこだ。俺では洋館の中に入ることは出来ない。あの洋館に入れるのはロクサスと……ナミネだけだ」
リクは苦そうな顔でナミネのことを見た。
その瞬間、ナミネはリクの心中を察した。
リクは、自分とロクサスにその洋館内に入ってもらい、他の手掛かりを探し出して欲しいのだ。
勿論、リク自身が洋館内を調べたいという気持ちはあるだろう。
しかし結界がある以上、リクにはどうすることも出来ないのだ。
「無理にとは言わない。ただ、あの洋館の中にハートレスは居ないとロクサスが言っていたし、ナミネにも出来ることは多いと思う。ロクサスと一緒にあの洋館を調べてくれないか?」
リクにしても、得体の知れない洋館などに自分を立ち入らせることについて引け目を感じているのだろう。
しかし、ここはロクサスと自分に頼むしかない——とも考えているのだろう。
友人の頼みを無碍には出来ないし、たとえ怪しい洋館であっても、ロクサスと一緒なら安心である。
そして何より、例の洋館はカイリと何か関係があるかも知れないのだ。
カイリに代わって、自分が洋館の謎を解き明かすのも何かの縁のように思えた。
ナミネは、リクの頼みを快く引き受けることにした。
「ただ、一つだけ気掛かりなことがある。例の洋館一帯が、闇の気配が濃い。洋館の中も闇の気配が充満していたと帰り道でロクサスが言っていた。洋館に着くまでは俺も同行するけど、洋館の中で何か危険なことが起こったらロクサスを頼るんだ。いいな?」
「わかってる。でも、自分で出来ることは自分でどうにかするつもりだから大丈夫だよ。いつまでもロクサスに寄り掛かっているわけにはいかないもの」
ナミネは笑顔でそう応えた。
その笑顔からは芯の強さが感じられた。
この娘、変わったな———。
過去の弱々しい彼女とは違う、前向きな言葉。
それを聞いてリクも微笑んだ。
レイディアントガーデンの図書室にて
リクがナミネに洋館の探索を依頼していた頃、ロクサスは城の図書室に居た。
気の向くままに城内を歩いていたら、いつの間に図書室に辿り着いたのだ。
一度は自分用の客室に戻ったのだが、特にすることも無かったので、取り留めもなく部屋の外に出た。
しかし、だからといってナミネやリクのもとに戻ろうという気にもならなかった。
要するに、誰にも邪魔をされずに一人で何かの作業に没頭したかったのである。
何もしないでいると、昨日のことが頭に浮かぶからだ。
ロクサスは本棚の合間を歩きながら、書物のタイトルを目で追った。
『レイディアントガーデンの歴史』『輝ける庭の歴代統治者』『賢者アンセム その政治術』———。
なるほど、この世界の蔵書を集めただけあって、小難しそうな本ばかりが納められている。
ロクサスは元々、読書家なタイプではなかった。
ノーバディとして誕生して以来、機関の拠点で戦いに明け暮れる日々を送っていたのだ。
読書をするような時間的余裕もなく、当然ながら活字を目で追うといった行為にも疎かった。
そもそも“本を読む”という習慣自体が無いのだ。
そんなロクサスが、どこぞの評論家が書いたような本に興味を示すはずもなかった。
ロクサスは窓際のテーブル席に腰掛けた。
窓の外からはレイディアントガーデンの街並みがよく見える。
“普通の”人間は平和だな———。
自分でも捻くれた考えだと自覚しつつも、ロクサスはそう思わずにはいられなかった。
ロクサスは、ふと天上を見上げた。
その時、ロクサスはこのテーブル席が、ある場所と同一であることに気付いた。
「ここは、カイリと…カイリの……」
ロクサスが居るのは、幼少時のカイリが、祖母から”おとぎ話”を聞かされた場所だった。
ロクサスはソラとしての記憶を通じて、当時のカイリ達のやりとりの様子を知っていた。
会話の内容も大体覚えている。
遠い昔、全ての世界は一つだった。
しかしある日、大勢の人間が光を求めて争うようになった。
争い続ける人々の心に闇が生まれ、やがて世界そのものが闇に包まれた。
だが、子供たちの心には光が残っていた。
子供たちの心の中あった光の力で世界は救われた。
でも、世界は見えない壁によって散々になってしまった———。
もし全ての世界が一つのものだったとしたら、そこでは一体何が起こるだろうかとロクサスは想像した。
自分やナミネのようなノーバディ。
人の心を狙うハートレス。
ソラ、リク、カイリのように親切な人間。
そして自分を傷付けた自分勝手な大衆———。
今と大して環境が変わるわけでもなさそうだ——と、ロクサスは思った。
そして、そのように異なる立場の者たち同士の摩擦が、過去の争いを引き起こしたのだろう——とも思った。
争いは良くないことだとロクサスは認識している。
いや、ロクサスでなくとも、人間の大多数はロクサスと同意見だろう。
ただし、それは各々の立場の者たちの住み分けが上手くいっていればの話である。
どんな理由があろうと、相手のテリトリーに足を踏み入れて勝手な真似をすれば、大きな痛手を被ることになる。
そう、昨日の自分のように———。
ロクサスは虚ろな目で宙空を眺めた。
一箇所に定まらない視線は、やがてある本のタイトルに留まった。
ロクサスは椅子から立ち上がり、目に留まった書物がある本棚の前まで来た。
普段の自分ならば、こんな本に興味を持つなんてことは有り得ないのだが、今はそういう訳でもなかった。
ロクサスは何気なくその本を手に取り、表紙に付いている埃を払った。
『世界創世記』———。
それがこの本のタイトルだった。
【第10話:レイディアントガーデンの歴史】へと続く
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