存在しなかった世界
黒いコートを着た“彼”は、高層ビルが並ぶ摩天楼の下を歩いていた。
この街は本当に薄暗く、見通しが悪い。
鈍色の光を放つ『月』——人の心のキングダムハーツが消えてしまった今では、この世界の光源となり得るのは街頭のネオンだけだ。
この世界にはかつてどれほどの数のノーバディがいただろうか——と“彼”は考えてみた。
様々な世界に生まれ落ちたノーバディたち——彼らの大半は、この世界に辿り着いていたはずだ。
人の姿を留めたノーバディも、そうでないノーバディも———。
何千、何万という数のノーバディたちが『月』の放つ光に惹き寄せられた。
あの『月』の存在そのものが、ノーバディにとっては希望の象徴だった。
満たされない自分を、満たしてくれるはずの存在。
だからこそ多くのノーバディたちが、あの『月』が放つ光に惹き付けられた。
それは、自然の摂理だったのだろうか?
“彼”は自問してみた。
しかし、答えは出ない——出るはずもなかった。
少なくとも、今は———。
「相変わらず、暗いな……」
“彼”の口から出た独り言は、この街の状態を意味する言葉だったのだろうか?
それとも“相変わらず暗い”のは彼自身——という意味だろうか?
それは“彼”にしかわからない。
この街で一番大きなビル——『記憶の摩天楼』と呼ばれる場所の近くの広場を歩いていると、“彼”の目の前に黒いハートレスたちが地面から大量に湧いて出てきた。
ああ、思い出した——。
この街には、ハートレスも沢山いたことを——。
ハートレスにも『月』を——キングダムハーツを求めて集まる習性があった。
しかし、その『月』はもう消えてしまった。
そうであるにも関わらず、もう何も残っていないこの世界に留まっているとは、ご苦労なことだ——。
そんなことをぼんやりと考えている“彼”の右手に黒い霧のような光が集まり、やがてその光は鍵をかたどったような伝説の剣——キーブレードになった。
この街の色を反映しているかのような、黒い刀身のキーブレード。
それが“彼”の右手に握られている。
「……来い」
彼が無感情な低い声でそう呟いた途端、“彼”の前後左右から数体のハートレスたちが一斉に飛び掛かった。
しかし、“彼”はハートレスたちの攻撃を難なく躱す。
そして、その隙を突いてハートレスたちをキーブレードで次々と斬り伏せる。
ハートレスたちは数を減らしながらも“彼”に飛び掛かる。
“彼”は呼吸一つ乱すことなく、ハートレスたちの数を減らしていく。
まるで踊るようにして、その行程をひたすら繰り返す。
“彼”の右手にある黒い刀身のキーブレードが、ハートレスたちを、『心の闇』を斬り裂いていく。
何度も何度も、ひたすら斬る———。
こんな風にして、もうどれ程のハートレスたちを斬っただろうか———?
俺がキーブレードを手にした、あの日から———。
“彼”が着ている黒いコートの裾が空中に舞う。
“彼”は軽やかに、鮮やかにハートレスたちを斬り伏せていく。
数分が経った頃、摩天楼の前の広場に立っていたのは“彼”だけだった。
終幕への誘い
“彼”はハートレスを退治するためにこの世界に来たわけではなかった。
この世界を本拠地としていた、人の姿を留めていた13人のノーバディたちによって構成されていた組織——『ⅩⅢ機関』は既に存在しない。
“彼ら”は、その誰もが各々の理想、目的、真実のために散っていった。
機関は心を求める者たちの集団であったはず——だが“彼ら”が求めたものは、必ずしも同じものではなかったはずだと“彼”は思っている。
確かに、「心を手に入れたい」という意志は機関のメンバー全員に共通していただろう。
だが、そのために選んだ手段は、各々のメンバーごとに異なっていた。
機関に身を置いていた大半の者は、指導者であるゼムナスの意向に従い、人の心が織り成した『月』から心を得ようとした。
しかし、ゼムナスに反抗して独自のやり方で心を得ようとした者もいた。
機関に反逆して、独自の方法を用いて心を手に入れようとした者。
自分以外の者といることで心を得ようとした——得たつもりになっていた者。
“本当の自分”に会うことで真実を——心の有無を見極めようとした者。
『ⅩⅢ機関』と呼ばれた組織そのものは、確かに消滅した。
しかし、まだ全てが終わったわけではなかった。
『ⅩⅢ機関ロクサス』は、完全に消えてしまったわけではない———。
まだ、終わってはいない。
だから“彼”はこの街に、この世界に戻って来た。
過去との、決着を付けるために——。
“彼”は右手にあるキーブレードを握り締めたまま、市街地を抜けかつてⅩⅢ機関の本拠地であった城に足を踏み入れた。
白い床に、白い壁。
人間が済むには、あまりにも無機質な内装。
主を失い、今では住む者もいない「白」を基調とした巨城は、あまりにも虚ろだった。
“彼”が歩くたびにコツ、コツという足音が辺りに反響する。
城の長い廊下を歩く途中、“彼”はふと張り巡らされた窓を見た。
外の景色を眺めるためではない。
窓に映っている“彼”の顔が、ひどく暗かったからだ。
自分でも明らかに“暗い”と断言できるほどに暗い、“彼”の表情。
それは単にコートのフードを目深く被っているから——というわけではなかった。
“彼”の顔を必要以上に暗くしている原因とは、“彼”が抱えている闇——“彼”の『憎悪』である。
果たして自分は、自分の中にある『闇』を断ち斬れるのだろうか———?
そんな思いが“彼”の頭の中を巡る。
もうこれまでに、何回そんなことを考えただろうか?
窓に映った自分の暗い顔を見つめながら“彼”は自問する。
ナミネは自分に「戻ってくるよね?』と訊いた。
自分は『必ず戻る』とナミネに約束した。
だが、自分が“戻る”のは、そう簡単なことではない———。
自分の中の闇を、“過去”を断ち斬れば自分は自由になれるはずだ。
自由な自分を得て、自分のことを待っている人たちのもとへと戻ることが出来る———。
しかし、どうすれぱ“戻れる”のか、“彼”にはよくわかっていなかった。
“心”とは、そして“感情”とは——かくも難しい。
自分自身の気持ちに、どのようにして折り合いを付ければ良いのか、まるでわからない。
だから、“答え”が見つからないから、“彼”はここに来た。
全てが終わったはずの、この狭間の世界に——。
もし戻らなければ、きっとナミネのことだ。
誰も見ていないところで、独りで泣いたりするのだろう。
彼女は、そういう性格をしている。
その事実を、“彼”は他の誰よりも深く知っていた。
だから、逃げるわけにはいかない。
決着は付けなくてはならない。
何がどうなろうと、意地でも戻らなければならない———。
“彼”の右手が、より一層強くキーブレードを握り締める。
これで、絶対に終わりにする———。
決意を新たにして“彼”は再び歩き始めた。
かつての復讐者
そこは檻のような部屋がいくつも並んでいる、城の牢獄だった。
かつて機関によって捕らえられたカイリが、ゼムナスの副官でもあるNo.7のサイクスによって幽閉された牢獄。
“彼”はその牢獄の通路を歩いていた。
ある人物と会うために——そして、決着を付けるために。
やがて“彼”は一つの牢の前で足を止め、鉄格子越しにその中を見た。
牢の内部の壁は紫色であり、その紫色に溶け込むこともなく座り込んでいる一人の初老の男がいた。
それは、“彼”が憎んだ人物だった。
初老の男は“彼”の気配に気付き、ゆっくりと顔を上げた。
虚ろな目に映ったのは、黒いコートを着た“彼”の姿。
「君は………?」
何日も水も飲んでいないような、しゃがれた声だった。
「その服は、ⅩⅢ機関の人間か……?」
初老の男は首を傾げた。
フードを目深く被っているので顔は分からないが、もう既にⅩⅢ機関は存在しないはずだ。
しかし“彼”が着ている黒いコートは、間違いなく機関の者が纏う服だった。
「なぜだ……?機関の者はもう既に誰もいないはず。そうか、君は………」
しゃがれた声で痛々しく語る初老の男は、あることに気付いた。
“彼”の手にはキーブレードが握られている。
そして、機関の者以外で自分の目に映った黒いコートを着ている可能性がある人物を、彼は一人だけ知っていた。
「リク、だな………?」
“彼”は何も答えなかった。
「ふふ……なぜ私がこんな場所で生き長らえているのか、不思議でたまらんだろう?」
初老の男はしゃがれた声で続けた。
「いや、なぜ私が今も生きているかなど……君にとってはどうでもいいことだったな……」
どうでも良い——というわけではない。
“彼”はそう思ったが、口には出さなかった。
あの時——人の心が織り成した『月』——人の心のキングダムハーツが砕け散った時——。
キングダムハーツ転送装置が爆発する直前、賢者アンセムは自分のもとへ駆け付けたソラに、世界の命運を託した。
そして、自分の復讐のため犠牲となったロクサスに向けて、もはや聞こえはしないであろう謝罪の言葉を伝えた。
そして、ゼムナス——ゼアノートと自分の愚かさを戒める言葉を言い残し、転送装置の爆発に巻き込まれて命を落とした———はずだった。
“彼”は、その時のことを思い返していた。
ソラ、リク、カイリはアンセムの近くに居合わせたにも関わらず、ただ気絶しただけであった。
爆発の被害は受けたものの、目立った外傷は無かったのだ。
しかもリクは、ゼアノートの姿から元の姿に戻っていた。
そして——なぜかゼムナスは姿を消していた。
気絶している状態のソラたちを、なぜゼムナスはわざわざ見逃す必要があったのだろうか?
アンセムによって破壊されたキングダムハーツを創り直すために、キーブレードの勇者たちを再び利用するつもりでいたのだろうか?
あるいは、単なる気まぐれでソラたちを見逃したというのだろうか?
もちろん、そういった可能性はゼロではないだろう。
しかし、ゼムナスがソラたちを見逃したのはそういった理由ではなく、別の理由があったからではないか——?
“彼”は、そのように考えていた。
ゼムナスはソラたちを『見逃した』のではない——『見逃さざるを得なかった』のである。
ソラたちが気絶している間に、ゼムナスは別の場所で、別のことをしていた。
それは———
「あの装置が爆発する直前、私はゼムナスによって闇の回廊の中に引きずり込まれ……ここに幽閉された」
そう——“彼”の推測は当たっていたのだ。
「ここに放り込まれた後、あいつは私に言った。“あなたにはまだまだ私のために働いてもらう”とな。おそらくキングダムハーツを再生させるために私を利用するつもりだったのだろう。全く、どこまでも愚かな弟子だよ………」
初老の男——賢者アンセムは自嘲するように言った。
「しかし、当のゼムナスはソラたちに倒された。そして今の私は、この牢獄の中で朽ち果てていくのを待つばかりだ。自業自得とは、正にこのことだな……」
“彼”はフードの奥から、暗い目でアンセムを見ていた。
「リクよ……君が私を恨んでいるということは十分承知しているつもりだ。私は君が苦しむとわかった上でロクサスを連れてくるように頼み、君はゼアノートの姿になってしまった——」
“彼”は何も言わず、牢の鉄格子越しでアンセムのしゃがれた声を聞いている。
「私は復讐のためにロクサスを犠牲にし、ナミネを苦しめ、ソラを利用した。君は、そんな私を許せない……許すわけにはいかないのだろう?」
当たり前だ。
許せるはずが無い——と、“彼”は思った。
確かに“彼”にはアンセムのことが許せなかった。
だが、許せないのはアンセムだけではなかった。
「私の復讐はもう終わった。ゼアノートもゼムナスも、ⅩⅢ機関も既にこの世には存在しない。君のキーブレードで消されるならば、私は本望だよ……」
アンセムは“彼”から視線を外し、そして俯いた。
かつて復讐のために燃やしていた執念は、一体どこへ消えてしまったのやら——。
今のアンセムは、何をする気力も無いただの『脱け殻』のように見えた——少なくとも、“彼”にはそう思えた。
「私は、弟子たちによって無の世界に追放されてから復讐だけを願った。この10年の間、怒りと憎しみを支えにして生きてきた。たが、それすらも今の私には無い。今の私の心は、空っぽだよ……」
何が空っぽだ。
ノーバディ気取りのつもりか?
“彼”にとって、アンセムの言葉は不愉快でしかなかった。
あんたは——“過去”の自分さえも見捨てるつもりなのか?
“過去”を見捨てるのと、“過去”と決別するのとでは——意味が全く違うはずだ。
一体、何を勘違いしているんだ——。
「君には、本当に辛い思いをさせてしまった。さあ、やるんだリク——君のキーブレードで、もう何もかも終わりにするんだ……!!」
「相変わらず、つまらないことを言うんだな……あんたは」
アンセムはハッと顔を上げた。
“彼”の声は、自分が知っている少年の声——リクの声ではなかった。
「君は、リクではないのか?では、そのキーブレードは一体……!?」
そこまで言って、アンセムは“彼”の背丈がリクよりも少しだけ低いであろうということに気付いた。
「まさか、ソラ……なのか?」
「ああ、そうだな……」
でも、今は違う———。
「最近までは……“ソラ”だった」
“彼”の声には、抑揚が無かった。
そして、それはアンセムが知っているソラの声でもなかった。
“最近までは”——“彼”は確かにそう言った。
“彼”の手にある黒い刀身のキーブレード。
機関の者が纏う黒いコート。
そして何よりも、この声。
「俺のことを、忘れたとは言わせない」
“彼”の声は低く、そして怨嗟の念がこもっていた。
かつてアンセムがディズと名乗っていた頃に聞いた、あの少年の声。
自分に対して『憎くてたまらない』と言った少年の声。
「なぜ、君がここにいる?君は消えたはず——なぜだ……!?」
「知りたいか?」
困惑した表情を浮かべているアンセムに対して“彼”が問い掛ける。
「さっきから黙って聞いていれば……あんたは相変わらず勝手なことばかり言う」
“彼”は吐き捨てるように言った。
この男は——アンセムはいつでもそうだ。
“心”でも“生命”でも、たとえそれが自分のものであっても、まるで道具のように——存在することに意味が無いかのような言い方をする。
俺はあんたの、そういうところが憎くてたまらないだよ———!!
「一体、なぜ君が……なぜだ……!?」
そんなに信じられないか。
別にそれならそれでいい。
どちらにしろ、俺のやるべきことに変わりは無い。
「……決着を付けに来た」
“彼”はそう言い放つと、コートのフードを外した。
「ロクサス……!!」
黒いフードの下から表れた“彼”の素顔は、紛れもなく『ロクサス』のものだった。
「なぜだ……!!?」
「さあ……なぜだろうな」
ロクサスは無表情に、右手にある黒いキーブレードを見ながらそう言った。
「君は…ソラに還元されて消えたはずでは……!?」
「でも、俺は消えなかった。ただ、それだけだ」
「そんな……そんなことが……」
アンセムは目を見開き、戸惑いながらもロクサスのことを見つめている。
ロクサスの青い瞳を。
「では、君は何をしにここへ……?」
少し落ち着いたのか、先程よりもいくらか冷静な口調でアンセムが尋ねた。
「言っただろ?決着を付けに来た」
「決着———」
ロクサスの言う『決着』の意味が、アンセムには容易に推測できた。
ロクサスは自分のことを憎んでいる。
ならば、ロクサスが取る行動はただ一つだけ———。
「でもその前に、あんたにいくつか訊いておきたいことがある」
「……ああ。私に答えられることなら何でも答えよう」
それで少しでも君に償えるのなら———。
「俺には……いや、俺とナミネには心があるのか?いや、あったのか?」
「理論上は無いはずだ。心が肉体を離れることでノーバディは生まれる。しかし、もう私の理論などは信用しない方がいい……」
心のことなんて、自分には何もわかってはいなかった。
説明することは出来ても、本質には手が届いていないのだから——。
「心の有無など、外見からはわからない。理屈では説明出来ないのだ。君はノーバディであるにもかかわらずキーブレードを手にしているのが、その何よりの証拠だ……」
「証拠…か……」
ロクサスは右手のキーブレードを見つめた。
キーブレードのことで、今までどれ程悩んだだろうか。
このキーブレードは、やはりソラを選んでいたのか?
それとも“俺自身”を選んでいたのか?
「ナミネも同様だ。いくら特別な生まれ方をしたからと言っても、彼女の精神は言葉では説明しきれない。彼女の、あの哀しい表情には偽りなど無かった……」
アンセムの顔は後悔に歪んでいた。
今までナミネは、自分のせいでどれほど苦しみ、辛い思いをしただろうか———。
自分の刺のある発言のその一つ一つが、どれ程ナミネのことを傷つけてしまったことか———。
「ナミネは……彼女は今、どうしているのだ?」
「一度はカイリに戻ってしまった。でも、今は俺と同じように実体を持って存在している」
「そうか………」
ナミネは、消えずに済んだのか———。
「よかった……本当によかった………」
とっくに後悔していた。
自分はこれまで、幾度となくナミネに——本人の前では遠回しにだが、まるで決まり文句のように『消えろ』と言ってきた。
ナミネがノーバディだから——という理由だけでだ。
そのことで、ナミネはどれ程苦しんだだろうか。
そのナミネが消えてしまわなくて、本当によかった——。
「まだ分からないことがある。一度は元の存在に戻ってしまった俺とナミネが、どうして今は実体を持って存在しているのかだ」
「私がここに幽閉された後、君たちの身に何があったのかは私には分からない。ただ確かなのは……」
「何か、心当たりがあるのか?」
全ては自分の憶測に過ぎないと、過去のアンセムは思っていた。
しかし、その憶測こそが真実だったのではないだろうか——?
「心は——強い意志は理論を越える。ロクサス、君が納得するような答えではないだろうが、君がキーブレードを使えるのも、君とナミネがもう一度実体を持つことが出来たのも、君たちに強い意志があったからではないかな」
「強い意志……だと?」
「……ひとつだけだが、分かりやすい例がある。君にも関係していることだ」
「……何?」
「かつてソラはカイリを救うために、自分の心の扉を闇のキーブレードで解放してハートレスになった………」
ロクサスはアンセムが言わんとしていることを即座に理解した。
時期としては、自分がトワイライトタウンに生まれ落ちて、ゼムナスと出会った時のことだろう。
「しかし、ハートレスとなったソラはノーバディである君を——つまり“ロクサス”という半身を必要とすることなく、人として再生した」
「その理由が、あんたには分かるのか?」
「おそらく、カイリのソラを救いたいという心——言い換えるならば“強い意志”を媒介として、ソラはハートレスから人の状態に戻ったのだろうか。ソラとカイリの絆が、そのような奇蹟を実現したのだろうな」
「絆が、奇蹟を実現した……?」
「先ほども言ったように、君とナミネに何があったのかは私には分からない。しかし、ナミネは君の身を案じていたし、君にも“消えたくない”という確固たる意志があったはずだ。そのような強い意志が、君たちの中に存在していたという事実を考慮すれば、あるいは………」
「じゃあ、俺とナミネはそれぞれの意志を媒介として、人間として復活した……ということか?」
「もちろん、それ以外にも理由はあるかもしれない。だが、想像の範疇ではあるが私に言えるのはそれくらいだ……」
一体、いつからだ?
自分の中にそんなものが——“強い意志”とやらが生まれたのは——?
機関に入って、アクセルと親友になってからか?
キーブレードのことを——本当の自分を知りたいと思うようになってからか?
自分が自分であることに拘っていた頃の俺が、ソラに還元されてしまった後からか?
それとも、俺とナミネの“想い”が通じ合ってからか——?
俺が今こうして存在しているのは偶然なのか、必然なのか。
一体、どちらなのだろうか。
俺の——俺たちの“強い意志”が生まれたのは、偶然なのか?
それとも、必然なのか?
なあ、どう思う———?
ナミネ———。
復讐の代償
ロクサスとアンセムの周囲を、沈黙が支配していた。
一体、どれくらいの時間が経っただろうか。
アンセムが口を開いた。
「他に、私に訊いておきたいことはあるかね……?」
当たり前だ——と、ロクサスは思った。
まだ本題には入っていないからだ。
「これが、最後の質問だ」
鉄格子の向こうにあるロクサスの表情が、目が一層暗くなるのをアンセムは感じた。
何という暗い目だ、とアンセムは思った。
ロクサスの青い瞳の奥で、青白い炎が燃えているような——そんな目だった。
「あんたが書いたレポートは、ソラの目を通して俺も読んだことがある。あんたの目的は、自分のことを裏切った弟子たちに復讐することだった。そうだな?」
「ああ、その通りだ……」
「でも、あんたが実際に復讐しようとした相手は、あんたのことを裏切った弟子たち自身じゃない——そのノーバディだ。そのことを知った上で、あんたは俺たちに——ⅩⅢ機関に復讐しようとした」
「そうだ………」
「あんたは“ノーバディは存在してはいけない”という自分に都合のいい理由を作って、それを復讐の口実にしていただけだ」
「口実か。そうだな、君の言う通りだ……」
「確かに俺たちが——機関がしていたことは、誰かを不幸にすることだった。だから“存在してはいけない”だとか“世界の秩序を乱す者たち”だとか言われても、少なくとも俺は否定しない」
誰かをハートレスにして、そのハートレスをキーブレードで斬って、心を集めて———。
そんなことを何回繰り返しただろうか。
あれは紛れもなく“悪”に分類される行為だった。
そのこと自体は、ロクサスも認めていた。
「あんたは、復讐のしたい弟子たち自身はもういないからといって、弟子たちのノーバディに矛先を向けた。ノーバディそのものを憎むことで、復讐する理由をすり替えたんだ。そうだろう?」
「ああ。返す言葉もない……」
「あんたが憎んだ弟子たちはもういない。ⅩⅢ機関という組織も、今はもう存在しない。だったら、これであんたの復讐は終わったということになるのか?」
アンセムは言葉に詰まった。
ロクサスの言う通り、自分の目的は——復讐は果たされたはずだ。
——にも関わらず、自分の中にあるこの虚ろさに戸惑っていた。
「復讐は終わったんだろ?その割には暗い顔だな。嬉しくないのか?」
アンセムは下を向き、床を見つめながら考えていた。
復讐は果たされた。
自分の悲願は達成された。
それならば、なぜ嬉しく思わないのだ?
一体、なぜ———?
「それとも俺のことを——“ⅩⅢ機関ロクサス”を消さなければ、あんたの復讐は終わらないのか?」
牢の鉄格子を挟んで、ロクサスとアンセムの視線が交錯した。
片方は、怒りと憎しみの視線。
もう片方は、後悔と哀しみの視線。
それらは相反する感情を多分に含んでいた。
「君が言ったように、私は自分の気持ちをすり替え、誤魔化し、君やナミネのことを苦しめてしまった。今さらこんなことを言っても信じてはもらえないだろうが、私自身——許されるべきではないと思っている」
「……本当に、そう思ってるんだな?」
アンセムの瞳に厳しい視線をぶつけながらロクサスは言った。
その声には怒りが滲んでいた。
「君の気が済むようにすればいい。君のキーブレードで、私を裁いてくれ。君には、その権利がある。君自身の怒りと憎しみに、今ここで決着を付けるんだ……!!」
「……ああ。言われなくても、そのつもりだ」
ロクサスの左手に段々と白い光の粒が集まり、やがてその光は剣の形を成して白色のキーブレードに——『約束のお守り』になった。
そして、ロクサスは右手に握られている闇の力の象徴である黒いキーブレード——『過ぎ去りし思い出』で牢の鉄格子を一閃し、いとも簡単にこれを破壊した。
壊した鉄格子の部分からロクサスは牢の中に入り、アンセムに歩み寄った。
両手にあるキーブレードを、握り締めたまま———。
「……決着を付けさせてもらう」
そう宣言したロクサスはアンセムの前に立ち、左右のキーブレードを頭上に構えた。
「最後に、言い残すことはあるか?」
キーブレードを頭上に構えたまま、ロクサスが尋ねた。
「私は、ただの愚か者だった……」
“ナミネが役目さえ果たしてくれるのならな——ロクサスなど、どうなろうと構うものか”
個人的な復讐のために、ロクサスを犠牲にした。
“まずナミネの始末——“立派に役目を果たしたようだからそろそろ消えてもらおう”
憎しみに駆られ、恨みに駆られ、ナミネを傷付けた。
“あれもまた存在を許されない者”
“おまえが何を知っても運命が変わるわけではない”
“ノーバディに権利など無い——そもそもノーバディは存在すら許されない者”
“私がしもべなら、おまえは道具のようなものかと思ってな”
“たかが、ノーバディだ———”
「生命」を踏み躙り、かれらの意志を蔑ろにした。
このような愚者のために、不幸な存在を幾人も生み出してしまった。
自分は咎人以外の、何者でもない———。
「最後にもう一度だけ言わせてくれ。本当にすまなかった。ロクサス——もう、これで終わりにしよう——」
「……ああ」
アンセムは静かに目を閉じた。
そして、数秒後に訪れるであろう最期の瞬間を待った。
「これで終わりだッ!!」
ロクサスが頭上に構えた2本のキーブレードを、勢いよく振り下ろした。
過去との決別
これで終わる———。
そう悟ったアンセムの表情は穏やかだった。
しかし、いつまで経っても痛みは感じなかった。
「………………?」
疑問に思ったアンセムは目を空けた。
そして、目の前に光景に驚いた。
ロクサスが振り下ろした2本のキーブレードはそれぞれアンセムの頭と肩をかすめ、床に突き刺さっていた。
その様を見て、ロクサスは意図的に攻撃を外したことを知った。
「ロクサス、なぜ………?」
「……終わったんだ」
色々な感情が滲んだ声で、ロクサスは目を閉じながら静かに言った。
「全てのノーバディを憎んだ“復讐者ディズ”も、弟子たちに裏切られて絶望した“賢者アンセム”も——たった今、俺がキーブレードで斬った。これで、全て終わったんだ……」
ロクサスは床に突き刺さった2本のキーブレードをゆっくりと引き抜きながら、アンセムにそう告げた。
ロクサスの言葉を聞いたアンセムは震え出した。
「なぜだっ……!?」
アンセムは激情に任せて声を荒げた。
聴いている方が痛々しくなるような、しゃがれた声であった。
「君は私が憎いはずだ——なのに、なぜ……!?」
「……あんた、そんなに消えたいのかよ?」
そう言ったロクサスの左手から白いキーブレードが——『約束のお守り』が光の粒となって消えた。
ロクサスは心底呆れたと言わんかりの表情でアンセムを一瞥した。
「だったら、どうして今までこんな牢屋に居たんだ?」
「それはッ………」
「本当に消えたいなら……自分の“生命”を捨てたいなら、どうして今までそうしなかったんだ?」
目を伏せながら、アンセムが口籠もる。
何も言い返せなかった。
「大体あんた、復讐を果たせて本当に満足したのかよ?」
「満足したか……だと?」
「復讐して、でも満たされなくて、それでも何か自分が存在する理由が欲しいから——今まで、こんな牢屋で蹲っていたんじゃないのか?誰かが来るのを待っていたんじゃないのか?」
まるで心の中を見透かすかのように、ロクサスはアンセムの目を見ながら言った。
その語気に、アンセムは気圧されていた。
「あんたはノーバディじゃないから、ちゃんとした心があるんだろ?心は怒りや憎しみだけじゃないってことを知っていたはずだろ?」
「だから、何だというのだ……」
「憎んで、恨んで、そんなにやつれて、そんなガラガラな声になってしまって……あんたはそれで本当に満足なのか?」
ロクサスが右手の黒いキーブレードを肩に担いで、アンセムに背を向けた。
「憎んだ者たちに復讐を遂げて、今はそんなにみすぼらしい姿になってしまって……今のあんたは本当に満足なのかよ?」
怒りのままに、憎しみのままに動いて——。
自分自身が生み出した『闇』に突き動かされて——。
それでも、本当は———。
本当は、苦しかった———。
しかし、他にどうすればいいかなんて分からなかった。
それがアンセムの本心だった。
「今さら、私にどうしろと言うのだ。復讐だけが私の支えだった。他のことなど考える意味も、資格も無かった……」
「俺はそんなことを訊いてるんじゃない。あんたは本当にそれで満足できたのかって訊いてるんだ」
ロクサスはアンセムに背を向けたまま尋ねる。
アンセムはロクサスの背中すら見ていられなくなり、視線を床へと落とした。
「私は満足している。自分の目的を——復讐を全うできた。今の私に残っているものなど、もう何も無い……」
しゃがれた声でアンセムは絞り出すように言った。
その言葉にロクサスは眉を顰めた。
アンセムの言い分が、到底信じられなかったからだ。
「そうか。復讐できて満足したのか。今はもう何も残ってないのか。だったら、あんた———」
ロクサスが肩越しにアンセムの方を見た。
そして、ロクサスの目に“あるもの”が映った。
「どうして、泣いてるんだ?」
アンセムの目からは涙が滝のように溢れていた。
やつれた頬を伝い、床へと水滴が次々と流れ落ちていく。
「私にもわからんよ。涙など、とうの昔に枯れてしまったと思っていたのだがな……」
「さっき言っただろ?復讐者としてのあんたも、賢者としてのあんたも、俺が斬った。もういないんだ。今のあんたは“ただの”アンセムだ」
「……しかし、今さら私が生きる理由など——」
「生きる理由?そんなもの、俺が知るか」
ロクサスはアンセムから再び視線を外し、前を向いた。
「どうしてあんたは心があるのに、心のままに動かないんだ?存在する理由が欲しいなら、自分にとって大切な“何か”が欲しいなら、どうしてそのために動かないんだ?」
なぜ、自分は今まで忘れていた?
心は怒りや憎しみだけではないことに——。
ソラやリクを見ていて、自分はそのことを思い出していたはずではなかったのか?
怒りや憎しみよりも大切なことを、なぜ今まで忘れていた?
自分の半分も生きていないノーバディの少年ですら知っていることを、なぜ今まで忘れていた?
やはり、自分は愚か者だな———。
アンセムは心の底からそう思った。
「ふ、ふふ………」
「何がおかしいんだ?」
「いや……私ほど愚かな人間も……そうはいないだろうと思ってな……」
「……ああ、そうかもな」
「私は、本当にどうしようもない人間だな……」
全てを失ったはずなのに、自分でそう思っていたはずなのに——実は、そうではなかった。
自分の中にはまだ残っているものがあった。
自分一人では“それ”の存在に気付くことすら出来なかった。
「はは……これは滑稽な話だ……」
「そんなに自分のことがおかしいのか?」
「いや、私にもいつか君の——君たちのように“自分にとって大切な何か”を見つけられるだろうか——と、思ってな……」
「“たかがノーバディ”にだって見つけられたんだ。時間は掛かっても、いつか見つかる日が来るんじゃないのか?」
ノーバディである自分にだって見付けられたんだ。
心があれば、いつか必ず。
怒りや憎しみ以外の“何か”が、見付かる日が来るはず——。
「……ロクサス」
「何だよ」
アンセムがロクサスの背中に声を掛ける。
「君は、本当に強いな。いや……強くなった」
「……俺はあんたが憎くてたまらないけどな」
でも、怒りや憎しみだけじゃない。
自分の心にはもっと別の——“何か”がある。
それが何なのかは、まだ分からない。
でも、時間を掛ければ、その“何か”の正体を理解できるはず——。
ロクサスは、そう思っていた。
「これ以上“ただのアンセム”と話すことは何も無い。あとは闇の回廊でも使って、何処かに行ってしまえよ」
「残念ながら、闇の回廊は——もう使えそうにないな……」
「……何だって?」
「ゼムナスによってここに幽閉されてから、闇の力が上手く使えなくなった。そもそも私の闇の力とは、復讐への執念そのものだった。だが私の“闇”は君に断ち斬られてしまったからな……。もう闇にも完全に見放されてしまった——ということかもな……」
「だったら今度は闇に頼らないで、自分の足で世界を歩いてみたらどうだ?大切な“何か”を見つけるために………」
アンセムが紅いマントを纏って立ち上がたった。
その瞬間、アンセムの背後に闇色の穴が口を開けた。
「ロクサス……これは一体……?」
「何でもかんでも俺に訊くな。あんたの心が命じるままにすればいい……」
「そうか………」
目の前に現れた闇の回廊は、間違いなくロクサスの力によって開かれたものだった。
それが分からないほど、アンセムは鈍くはなかった。
そして、それがロクサスなりの餞別でることもまた、瞬時に悟った。
アンセムは闇の回廊に片足だけ踏み込んだ状態で、ロクサスの方を振り返った。
ロクサスは依然としてアンセムに背を向けたままだった。
「……ロクサス」
「今度は何だよ?」
「先ほども言ったが——本当にすまなかった。いや、本当にありがとう……」
「……ああ」
「それと……君に一つだけ頼みがある」
「頼み?」
ロクサスが黒いキーブレードを肩に担いだまま、アンセムの方を振り返った。
「君の“大切な人”にも、“すまなかった”と伝えてくれないか……?」
俺の、大切な人に———?
少しだけ逡巡した後、それが誰を指しているのかロクサスは合点がいった。
明るい金髪の少女——ナミネのことが脳裏を過った。
「わかった。必ず伝える」
紅いマントを纏ったアンセムの体がどんどん闇で見えなくなっていく。
既に体の半分以上が闇に埋まっていた。
「ありがとう、ロクサス。最後に君に会えて本当によかった。私は……君のおかげで——」
君のおかげで、私は本当の“心”を思い出すことが出来た———。
その時、ロクサスが見た闇に包まれていくアンセムの表情には、かつての冷酷な復讐者の面影は全く無かった。
今のアンセムの目には、復讐を誓っていた頃とは全く逆の“心”が宿っている。
かつて一つの世界を納めていた頃と同じ、かつて彼が賢者と呼ばれていた頃の温かい“心”が——。
「さらばだ。ロクサス……」
「さようなら。アンセム……」
闇の回廊が閉じる瞬間、アンセムははっきりと見た。
ロクサスが、自分に向かって微笑んだのを———。
“生命”ある者たちの強さ
ロクサスはアンセムの姿が消えていった闇穴が閉じていくのを見ながら、あることを考えていた。
果たして、これでよかったのだろうか——と。
「“心”と“生命”か………」
一体、どちらの方が大切なのだろうか?
その問いに対して、おそらく正しい答えは無いのだろう。
だが、あえて正解を求めるとするならば———。
「どっちも……だよな?」
大切なもの同士を比べることなど、自分には出来ない。
自分はノーバディだが、そのことはよく理解していたはずだ——とロクサスは思う。
ただ———。
アンセムとの因縁には、確かにこれで決着が付いた。
でも自分自身の“過去”には、完全なる決着を付けられただろうか?
いや、そうとも言い切れないのではないか———。
牢獄を出て、城の入り口に繋がる長い廊下を歩きながら、ロクサスは自問自答を繰り返していた。
自分の“過去”は消えない。
自分の『ⅩⅢ機関ロクサス』としての“過去”は、消えてしまったわけじゃない。
機関の一員として、世界に混乱をもたらした事実が消えたわけではない。
アンセムを憎んだ“過去”も、消えてしまったわけではない。
アンセムと決着を付ければ俺の“過去”とも決着が付くかと思っていた。
しかし、どうやらそうもいかなかったらしい———。
「このまま戻ってしまって、それでいいのかな?」
ナミネは自分に『戻ってくるよね?』と訊いた。
それは、自分の中にある憎しみを断ち斬ってから——憎しみと決着を付けてから戻ってきてほしい——という意味だったに違いない。
少なくとも、ロクサスはそのように思っていた。
果たして今の自分には、胸を張って帰れるだけの資格があるのだろうか?
ロクサスは廊下の窓に映った自分の顔を見た。
今の自分の表情は、牢獄に向かう途中に見た時ほど暗くはないと思う。
しかし、そう見えるのは単に今はコートのフードを被ってないせいかもしれない——とも思う。
憎んで、恨んで、アンセムは復讐者になった。
でも、それはアンセムを憎いと思った自分自身にも当てはまることだった。
信じていた者たちに裏切られ、その後何年も無の世界で生きるためには、怒りと憎しみを支えしなければ、とっくに孤独に押し潰されてしまっていたのかもしれない。
孤独であることが、どんなに苦しいか——それをロクサスは骨身に染みて知っていた。
そして、その苦しさはナミネも、今はもういないアクセルも、ノーバディでなくても、誰でも知っている。
アンセムだって、例外ではない。
誰も、孤独には克てないのだ———。
自分は、心の底からアンセムという人物を憎んだ。
それは紛れもない事実であり、その気持ちに——“憎悪”の感情に嘘偽りはない。
アンセムを憎いと思った気持ちは、今でも自分の中に残っている——残り続けている。
この先の生涯で、この憎悪が完全に解消されるかどうかは疑わしい。
それでも、同じ“孤独”を——苦しみを知る者として、自分はアンセムのことを救ってやりたかったのかもしれない。
だから、自分はアンセムを生かした。
“生命”を捨てるのではなく、温かい“心”のままに生きることで、今までに犯した罪を償ってほしいと思った。
だから自分は、あのような決着の付け方をした———。
「これで、良かったんよな?」
ロクサスは窓に映った自分に問い掛けた。
当然ながら、その問いに対する“答え”は返っては来なかった。
ロクサスは城を出て、街の中心地にある摩天楼へと続く暗い路地を歩いていた。
その光景を見ていたら、ふと過去の記憶が頭の中を過った。
機関を抜けたあの時も、この暗い路地を歩きながら色々なことを考えてたな———。
心のこととか、キーブレードのこととか——。
それから、アクセルのこと——ソラのこと——そして、自分のこと。
ロクサスは自分の頭に何か冷たいものがポツポツと落ちてきたことに気付いた。
それは雨だった。
そうだ、この街ではよく雨が降るんだった———。
機関を抜けてリクと戦った時も、俺がソラに戦いを挑んだ時も、雨が降っていた。
この街にいる間は、自分は雨と縁があるのだろうか。
そんなことを考えながらロクサスはコートのフードを被った。
降りしきる雨の中を歩きながら、ロクサスは自分自身の“過去”とは決着を付けきれなかったな——と思った。
『ⅩⅢ機関ロクサス』は、消えてしまったわけではない。
憎しみの感情も、消えてしまったわけではない。
自分の中にある“過去”と、どのようにして向き合えば良いのか——決着を付ければ良いのか、自分には分からなかった。
だから、その“答え”を求めて自分はこの世界に来た。
しかし、結局のところアンセムとの決着の先あると思った“答え”——自分の後ろ暗い過去と決別するための明確な“答え”は、見付けられなかったように思える。
それでも、一つだけ分かったことがあった。
アンセムを見ていて、やはり心は怒りや憎しみだけではないということに気付かされた。
ノーバディである自分に心があるのかどうかは、相変わらず分からない。
ただ、自分の中には怒りや憎しみとは全く別の、全く逆の気持ちもある。
そのことに改めて気付かされた。
たとえ自分に“心”が無いのだとしても、この気持ちは絶対に嘘じゃない——。
ロクサスはそう思った。
俺が一番欲しいと思ったのは、もしかしたらこういう気持ちだったのかもしれない———。
雨が降る摩天楼の一角で、ロクサスは雨宿りをしている白い人影が目に入った。
この街の色に似つかわしくない、白い服装の少女だった。
ロクサスは思わず彼女のもとへと駆け寄った。
「ナミネ……どうしてここに?」
「だって……心配だったから……」
どうやら、ナミネは自分のことを心配して、たった一人でこの街まで来てくれたらしい。
「……終わったの?」
ナミネは上目遣いで、遠慮がちにロクサスに尋ねた。
「ああ……終わった」
「そう………」
「大丈夫——今頃は……どこかの世界にいるさ」
心は、怒りや憎しみだけじゃない。
かつてソラが言っていた言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
そう思ったから、自分はアンセムを生かした。
その事実を悟ったのか、ナミネは安堵したようだった。
「でも俺の過去は——『ⅩⅢ機関ロクサス』の存在は、消すことができなかった」
「それは、消さなくてもいいんじゃないかな?」
ナミネの言葉にロクサスは驚いた。
「それは、どういう意味だ?」
「“今”のロクサスも、“過去”のロクサスも、そういうのを全部含めて、ロクサスは“ロクサス”なんじゃないかな……?」
「でも、俺は………」
「“過去”のロクサスがいたから、“今”のロクサスがいるんだと思う。私は、そんなに昔の自分を否定しなくてもいいんじゃないかなって思う………」
ああ、そうだ———。
機関の一員として、自分が犯した罪——。
アンセムを憎んだ、あの時の自分——。
どうやったって、消せるはずが無かった。
消せないと自分で分かっていたから、自分はアンセムと決着を付けることで、自分の“過去”と決別するための“答え”を見つけようとしたはずだった。
「あ、ごめん……。私がそんなことを言う資格なんて……無かった」
「いや……そんなことないよ」
自分も、ナミネも、アンセムも———何をどう足掻いたところで、結局のところ“過去”からは逃げられない。
過ぎ去ってしまった出来事を、変えることは決して出来ない。
向き合うか、背を向けるか———。
自分たちに選べるのは、多分それくらいなのだろう。
自分が求めた“答え”が、今やっと見つかった気がした。
「ナミネは、いつも俺に大切なことを教えてくれるよな」
「え………?」
「ナミネにそのつもりは無くても、いつも俺に大切なことを教えてくれる」
「……ロクサス?」
自分は、ナミネのそんなところが——好きなのかもしれない。
「ありがとう、ナミネ」
「私……何かした?」
呆気に取られているナミネとロクサスの周りに、いきなり地面からハートレスたちが現れた。
「ナミネ、こっちへ!!」
ロクサスは闇の回廊を開き、少し強引にナミネの手を引っ張って、その中に勢い良く飛び込んだ。
「ちょっと待って、ロクサ———」
ナミネが『ロクサス』と言い終える前に、二人の姿は闇穴の中に飲み込まれ、ハートレスたちの前から姿を消した。
ロクサスはナミネの手を引きながら、闇の中を走る。
機関員の証——黒いコートの裾を翻しながら。
そのコートそのものが、ロクサスにとっては“過去”の象徴のように思えた。
そして、ロクサスは再び思考する。
心、生命、過去———。
自分には——自分たち(ノーバディ)には、確かに“心”は無いかもしれない。
でも“生命”はある。
生きていて、存在しているから、自分たちはこうやって走ることが出来る———。
走る二人の視線の先——どこまでも暗い闇の奥底に、赤い夕陽が見えた———。
【訣別の刻(後編)】へと続く
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