こんにちは、FFマニアのユウです!
ここ最近、リマスター版のFF10-2を最初からプレイしました。
実のところ、かなり久々に触れたFF10-2。
このゲームを最後にプレイしたのは、果たしていつだったか。
10年前か?
いや、15年前か?
もはや思い出せないくらい昔のため、攻略情報なんて完全に忘れていた筆者。
だが、それもまた良し。
手元にある攻略本を敢えて見ることなくプレイするのも、また一興。
そんな訳で、コンプリート率とか気にせずにユウナを操作し、飛空艇に乗って自由気ままな冒険を満喫すること約20時間。
ヴェグナガンを倒し、シューインを成仏させ、ようやく辿り着いた1週目のED。
ここで筆者は、本記事の主題である「ティーダ幻影エンディング」を観ました。
そう、10年以上ぶりに。
久方ぶりのプレイで「ティーダ復活エンド」へと辿り着く方法を忘れていたため、図らずも「ティーダ幻影エンド」となってしまった訳ですが…
これが中々どうして、趣が深いではないか。
悲恋だからこそ光る演出とでも言うか、これはこれで“アリ”だなと。
そのように思うのは、筆者が酸いも甘いも噛み分けた30代のオッサンになったからでしょうか。

確かに悲しいのだが、決して「悲しいだけ」ではないのが「ティーダ幻影エンド」の醍醐味であろう
FF10-2を初めてプレイした2003年の時分、筆者は思春期の最中にいる少年でした。
そして、少年であるが故に、当時の筆者はティーダとユウナの運命について謎の持論を持っていました。
…などとクラスや部活の友人たちと語り合った日々が、今となっては懐かしい。
その反面、そのように断言していたこと自体、自分が“子供”だった証であるとも思える。
若かりし頃には分からなかったことも、今ならば分かる。
ユウナにとって、ティーダと再会しない人生があっても良いのではないかと。
大切な者を喪っても、人生は続く。
別離は辛いが、それもまた人生の一部。
過去とは、思い出とは、時間の経過と共に上書きされていく。
…という人生の真理みたいなものが理解できるようになった年齢となり、そのような心持ちで「ティーダ幻影エンド」を観ると、昔とは異なる解釈ができるのだから面白いものです。
そんな訳で、意外と悪くない(むしろ良い?)内容だと思えてきた「ティーダ幻影エンド」について、徒然と語っていこうと思います。
“ティーダがいない現実”を受け入れるユウナ

異界の深淵にて「あの指笛」の音が響き渡り…

幻光虫が集まってティーダの姿を形成していき…

FF10のエンディングと同じく、背後からユウナを抱き締めるのであった

ティーダの幻影に対して2年分の想いを吐露するユウナ

「もう大丈夫」と宣言するユウナだが、それは「ティーダがいなくても生きていける」という意思表示でもある

自分の胸に手を当てながら「ティーダは自分の中にいる」と言い切るユウナ

ユウナの決意に呼応するかのように霧散していくティーダの幻影

2年前と同じく、ティーダへの感謝を改めて述べるユウナ
「ティーダ幻影エンド」にて、ティーダは自分の心の中にいることを噛み締めるユウナ。
ともすれば、詭弁のようにも聞こえる言葉の数々。
そして何より、その表情は決して幸せなものではない。
しかし、不幸と呼ぶほど悲愴なものでもない。
ユウナはユウナなりに、ティーダが存在しない現実を受け入れている。
天国でもなければ、地獄でもない。
目の前にあるのは、ただただ現実のみ。
ならば、その現実を受け入れて生きていく。
ティーダがいなくても、自分は、自分の人生を歩む。
そんなユウナの心意気が「ティーダ幻影エンド」からは伝わってくる。
この哀愁。
この寂寥感。
プレイヤーの側からすると、胸に迫るものがある。
そのように思うのは筆者だけでしょうか?

ティーダが消えてから2年が経ち、ユウナなりに気持ちの整理が付いたということだろう…

ユウナ殿が2年分の感情に折り合いをつけることこそが、この場面の真骨頂ですな!
「ティーダ復活エンド」が理想寄りならば、こちらの「ティーダ幻影エンド」は現実寄り、といったところでしょうか。
何れにしても、この辺りの描写は現実味があります。
人生とは、出会いと別れの繰り返し。
別離や喪失は、確かに悲しい。
しかし、生きている以上は避けられない要素でもある。
その事実を、ユウナは否が応でも受け入れ、悲しみを乗り越え、前に進もうとする。
それがユウナなりのティーダに対する誠意であり、決別でもある。
この「ティーダ幻影エンド」について、筆者はそのように解釈しています。

たとえティーダが不在でも、ユウナには悲しみに呑み込まれることなく生きてほしいものである
ところで、少しばかり余談です。
実は「ティーダ復活エンド」へと至る最終の分岐でも、選択肢によっては似たような展開を見ることが出来ます。
バハムートの祈り子との問答で「彼と一緒に歩きたい?」と訊かれるユウナ。
ここで「一緒に歩きたい」を選ぶことで「ティーダ復活エンド」を拝める訳ですが、筆者はもう一つの選択肢である「このままでいい」という選択肢も良い味を出していると思っています。
「このままでいい」とは、即ち「ティーダが消えたままで構わない」という意思表示に他なりません。
しかし、ユウナは自分の胸に手を置き、堂々と宣言します。
「ここにいるから」…と。

ユウナが心の内に秘めている「ティーダに会いたい」という願望について問いかける祈り子

ユウナとプレイヤーにとって、ある意味では「究極の二択」でもある問答

「ティーダは自分と一緒にいる(※意訳)」と言い切るユウナの表情はとても清々しい

ユウナの答えに頷く祈り子の声は、どこか寂しそうである
ここで「一緒に歩きたい」を選ばないなど、言語道断。
ここで「このままでいい」を選ぶなど、非情の極み。
それ以前に、ユウナはそこまで薄情な女ではない!!
このブログ記事を書いている奴は、性根が腐ってやがる!!
…などという声が聞こえてきそうなものですが、この展開も意外と悪くないですよ。
ティーダの存在そのものを「過去」と割り切り、そして昇華する。
その上で、ここから先は「ティーダがいない人生」を歩むことについて決意を覗かせるユウナ。
その表情は決して冷淡なものではないし、不人情なものでもない。
それどころか、前向きな強さが伝わってくる。
何と言いますか、悲哀を通り越して、もはや爽やかさすら感じられます。
これはこれで“アリ”だと、少年時代には到底不可能だった解釈をしている今日この頃です。
“過去”に囚われているうちは幸せになれない

パインの台詞にあるように「過去を追う」のはFF10-2におけるテーマの1つである
FFにありがちな話ですけど、過去の出来事に固執しているキャラクターって多いですよね。
これは主役・脇役・悪役を問わず、どんな立場のキャラクターでも然りです。
FF6ならば、恋人を蘇らせるために奔走していたロック。
FF7ならば、宿敵との因縁を引き摺っているクラウド。
FF9ならば、器としての出自を否定して足掻いているクジャ。
FF12ならば、故郷を奪われた怒りによって復讐に燃えるアーシェ。
FF15ならば、実弟の策略によって2000年も幽閉され続けたアーデン。
彼らは“過去”に囚われており、程度の差はあるものの、そのせいで悲惨な人生を歩んでいる。
どこからどう見ても“幸福”ではないし、むしろ“不幸”な状態である。
普段は宝探しを楽しんでいるように見えるロックですら、内面には後ろ暗い感情を抱えている。
それって、詰まるところ「心の底から100%楽しんでいる状態」とはお世辞にも言えない訳で。
だからこそ、筆者はこのように思うのです。
“過去”に囚われている限り、人間は幸せにはなれないと。
悲しい出来事。
腹立たしい出来事。
不愉快な出来事。
それらを忘れるは容易ではなく、むしろ不可能かもしれない。
しかしながら、何らかの楽しい出来事、嬉しい出来事、充実した出来事によって、上書きすることは可能である。
少なくとも、自分自身の中で「現在のプラス」が「過去のマイナス」を上回れば、精神的な苦痛は多かれ少なかれ緩和される。
だからユウナも、いつまでもティーダのことでウジウジ悩んでいないで、新しい何かを求めて行動を起こしても良いと思うんですよ。
それこそ、FF10-2のように自由気ままに世界を巡ったりとか。

新しい旅の終着点にティーダがいないことを意識し始めるユウナ
作中でパインが言うように、過去ではなく未来に目を向けることはとても建設的だし、むしろ人間として非常に良いことだと思います。
過去は変えられないけど、未来は変えられる。
それこそ、本人の努力次第ではいくらでも。
つまり、アレです。
FF10で例えるなら、アーロンが言っている「無限の可能性」ってやつですよ。
もちろん“言うは易く行うは難し”ですが、ユウナならば大丈夫に違いない。
ユウナの傍にティーダがいなくても、ユウナは幸せになれる。
いや、幸せになってほしい。
…なんてことを、筆者は思ったりしています。

そうは言っても、さすがにアーデンほど過酷な人生だと“過去”を払拭して幸せになるのは不可能だろうけどな…

アーデンは復讐そのものが生き甲斐になっている奴だからね!
FF15の悪役『アーデン』の正体と魅力について語る!(ネタバレ注意!)
恋人の死を乗り越えた先駆者の存在

ルールーもまた「過去に囚われている人間」の一人であった
ティーダがいなくても、ユウナは幸せになれる。
そうは言っても、ユウナがそれを良しとして、すぐに立ち直れるかどうかは別問題。
新しい恋愛をするなり、はたまた結婚するまでには、きっと長い時間を要することでしょう。
そして、その過程において多くの葛藤が生じることも間違いない。
世界を救った大召喚士とはいえ、自己の内面から溢れ出る様々な感情を簡単に処理できるかと言うと、やはり一筋縄ではいかないでしょう。
そんな時、ユウナにとって大いなる助けとなりそうな人物。
言葉だけではなく、自らの人生を以ってユウナを導いてくれそうな人物。
一体、それは誰か?
そう、ルールーです!!
作中ではユウナに「本当の姉さんだと思ってる」とまで言わしめた偉大な黒魔導士。
そんなルールーだからこそ、ユウナに対して「恋人を喪っても生きていける」という実例を示せるに違いない。
それも絶対に、確実に、明白にだ。
なぜかと言うと、ルールーもまた「恋人を喪った悲しみを乗り越えた人物」だからです。

FF10-2においてはワッカと結婚し、息子(イナミ)を出産したルールー
FF10の本編から1年前、ルールーは恋人を亡くしました。
チャップは勇敢にも討伐隊に入り、ジョゼ海岸防衛戦に参加し、そして死んだ。
いや、シンに殺された。
そして、ルールーとワッカは悲しみに暮れた。
これは作中でルールーやワッカによって語られている通りなのですが、これはルールーにとって不幸極まりない出来事です。
そんな“不幸”から1年が経ち、自身の気持ちに折り合いを付けていくルールー。
グアドサラムで異界を訪れた際には、亡くなった恋人についての心情を吐露しています。
その表情や口調は、悲しみを滲ませつつも、決して後ろ向きなものではありませんでした。

「新しい誰かと付き合う」というティーダの提案について肯定するルールー
そんなこんなで、ユウナのガードとしてザナルカンドまでの旅路を踏破し、さらにはユウナと共にシンを打ち倒したルールー。
その後はワッカと結婚し、FF10-2においては息子を授かっています。
つまり、「昔の恋人との別離」を経て「新しい恋人と結婚」という人生の歩み方そのものが、ユウナにとっては参考(または手本)になり得るのではないか。
ルールーの生き方こそが、ユウナの人生において道標となり得るのではないか。
FF10-2で「ティーダ幻影エンド」を迎えたユウナの目には、ルールーの姿が“人生の先輩”として映るのではないか。
こういう生き方もあるんだよ。
新しい恋人を作って、結婚して、幸せになっても良いんだよ。
…ということを、ルールーならばユウナに上手く伝えられるのではないか?
恋人を忘れられずにいる妹が、幸せになれるように導いてやれるのではないか?
そんな役回りをルールーに期待してしまうのは、やはり筆者が歳を食ったせいでしょうか。
何れにしても、「ティーダ幻影エンド」を迎えた場合のユウナの人生において、ルールーの重要度は非常に高いと言えるでしょう。
最後に:年齢を重ねてから「ティーダ幻影エンド」を見ると色々な解釈ができる

「ティーダへの未練」に決着を付けることは、ユウナの人生において必要なことなのかもしれない
この記事の序盤も述べた通り、少年時代の筆者は「ティーダ復活エンド」一択の人間でした。
何なら、コンプリート率を100%にして、ティーダとユウナがザナルカンド遺跡で語らうのを見るまでがセットで、もはやそれ以外にFF10-2の結末はあり得ないとまで思っていました。
FF10-2をプレイするならば、様々なフラグを立てて「ティーダ復活エンド」に辿り着くのは当り前。
FF10をプレイした人間として、FF10-2にてユウナをティーダと再会させるのは、もはや義務。
このような謎の使命感(?)を抱いていた筆者ですが、あの頃から20年以上が経ち、年齢を重ねると考え方も変わるものです。
ユウナの人生において、ティーダが不在だとしても良いじゃないか。
ユウナの生涯において、ティーダが過去の存在になっても良いじゃないか。
ティーダの存在が“重荷”または“呪縛”のようになるのなら、それはユウナにとって不幸なことだし、むしろその不幸から脱するべきではないのか。
そのように考えてみると、FF10-2が発売した当時は全く受け入れられなかった「ティーダ幻影エンド」も悪いものではないように思える訳です。

管理人殿!
今日はいつになく人生について語りますな!

まあ、こんな講釈を垂れ流すくらいには「ティーダ幻影エンド」について思うところが色々とある訳だ…
大体にして、FF10-2のユウナは19歳という若さです。
この先の人生で、数多くの出会いがあるでしょう。
そんな出会いを全て無視して、20歳、25歳、30歳…といった具合に年齢を重ねて、それでもなおティーダを想い続ける。
それが果たして“幸せ”なのかと言うと、やはり違うのではないか。
どこかのタイミングでティーダへの想いに区切りを付けたとしても、それは決して罪ではない。
ティーダへの未練を断ち切ったとしても、それは誰からも責められるべき事ではない。
そもそも、ティーダを想い続けることについて疲れる時が訪れても不思議ではない訳で。
もしそれで罪悪感に苛まれるようならば、ルールーあたりに相談すれば良いだろうし。
…で、きっとルールーならば、ユウナを諭し、良い方向へと導いてくれるだろうし。
結局のところ、大切なのは「ユウナが幸せかどうか」であって、「ティーダの有無」は本質から少し離れた論点なのかなと。
ティーダがいなくても、いつかユウナが幸せになれる日は来る。
そんな未来を予感させてくれるのが「ティーダ幻影エンド」なのかもしれません。
それでは、この辺りで筆を置こうと思います。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました!

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