弟切草と紫苑
「不思議だよね。私は知らないはずなのに、どうして知っているんだろう」
そう語るナミネは、終始無表情であった。
「この館を見た時から、知らない筈の景色が頭に浮かんでくるの。だからなのかな?この裏庭には黄色い花が咲いているような気がしたんだ」
ロクサスには、ナミネが何を言っているのか分からなかった。
だが、頭の中にある僅かな知識を総動員することで、事態の輪郭が少しずつ掴めてきた。
ソラが忘却の城で偽りのトワイライトタウンを訪れた時、彼は街を懐かしむ感情を自覚したらしい。
偽りのトワイライトタウンとは、城の魔力を媒介としてソラの『裏の記憶』——即ち、自分の記憶から創り出されたものだ。
そのトワイライトタウンを進むうちに、ソラは自身の記憶に無い街に郷愁の念を抱いた。
全く身に覚えがない場所を訪れた時に、奇妙な感情が沸き立つ。
そういった場合、普通の人間はその感情を疲れなどに起因する単なる錯覚だと考えるだろう。
しかし、ある人間と対となるノーバディが存在する場合は、その限りではない。
自分自信の記憶ではない『裏側の記憶』。
『裏側』とは、言い換えれば自身の分身である。
ノーバディと、そのオリジナルたる人間。
両者は互いに影響し合うものだ。
『懐かしい』『見覚えがある』といった感覚は単なる既視感ではなく、自分の分身たる存在が影響している可能性がある。
もしそうだとしたら、ナミネはもう一人の自分、即ちカイリの記憶を感じているのではないか。
「ロクサスは、この黄色い花の名前を知ってる?」
「いいや。花には詳しくないんだ」
「この黄色い花、弟切草って名前なの」
「オトギリソウ?」
「そう。“弟”を“切る”“草”と書いて弟切草と読むのよ」
「見た目は綺麗なのに、何だか怖い名前の花だな」
花の名前のせいだけでなく、今のナミネの雰囲気も相まってロクサスは頭と体が冷たくなる心地がした。
「弟切草は薬にもなるの」
「薬?」
「そう。弟切草は薬草としても使えるの。この黄色い花が“弟切草”と呼ばれる前から、そのことを知っている男の人がいた。彼は薬師で、この花を原料にした秘薬の製法を心得ていたの」
「へぇ………」
「でも、ひょんなことからその人の弟が秘薬の秘密を他人に漏らしてしまい、そのことに怒った兄は弟を切り殺した。それ以来、この花は“弟切草”と呼ばれるようになったのよ」
「切り殺した、だって?」
「弟切草に纏わる言い伝えなんだ。怖いよね」
『ナミネが怪談好きとは知らなかったよ』——などと軽口を叩く気にはならなかった。
話の内容もさることながら、抑揚の無いナミネの口調から、普段の彼女とは違う妖々とした雰囲気を感じたからだ。
「それは……実話なのか?」
「どうだろう。私にも、この逸話が本当かどうかは分からない。ただ、その言い伝えのせいか弟切草の花言葉は縁起が良くない」
「花言葉?」
「そう。弟切草の花言葉は“秘密”や“迷信”……そして“怨み”」
ロクサスは何と相槌を打てば良いかわからなかった。
“怨み”の意味を持つ、黄色い花。
このような不気味な場所に、弟切草なる花が咲き乱れているだけで、十分に縁起が悪いように思えた。
そもそも、裏庭がある場所に弟切草が生えているということは、かつては洋館の住人によって手入れされていたということではないのか?
ナミネの話が本当なら、洋館の関係者が薬として用いるために弟切草を栽培していたとしても不思議ではない。
今、弟切草が裏庭の花壇跡以外の場所にも群生しているのは、人の手を離れたためだということは容易に推察出来る。
しかし、元々は花壇に植えられていた花であることはまず間違いない。
こんな不吉な花を敢えて花壇に植えて育てる人間の感性など、ロクサスには到底理解できなかった。
「こんな黄色い花、私は今まで見たこともなかった。本物は勿論、本や図鑑でも見たことがない。それなのに、この花の名前や言い伝えを知っているのはどうしてなのかな」
「それは多分だけど、ナミネ自身の記憶ではなく……」
「うん、分かってる。これは私自身の記憶じゃない。きっと……カイリの記憶なんだろうね」
ナミネは少し自嘲するようにしてカイリの名を口にした。
ナミネ自身の記憶でないのなら、カイリの記憶に違いない。
ロクサスにはそうとしか思えなかった。
「歩みを進めるうちに、眠っていた真の記憶が目覚める……か。ソラが忘却の城を訪れた時、今の私のような気持ちになったのかな」
ナミネは独り言とも取れる言葉を呟きながら、花壇跡の周りを歩く。
ロクサスにとって、その姿は過去を懐かしんでいるようであり、また過去を悔いているようにも見えた。
やがてナミネは足を止め、再びしゃがみこんだ。
よく見てみると、ナミネの足元に弟切草とは異なる花が咲いているのが分かる。
その花は薄紫色で、注意して周りを見てみると弟切草の海の中に点在するような形で何本か生えていることにロクサスは気付いた。
ロクサスはナミネに歩み寄った。
眼下にある薄紫色の花を眺めているナミネは、先ほどよりも僅かに微笑んでいるように見える。
「よく見ると、この辺りって数は少ないけど弟切草とは違う花も咲いているんだな。ナミネはその花のことも知っているのか?」
「知っている。これは紫苑だよ」
「シオン?」
「そう。紫苑の花。綺麗だよね」
「その花にも、花言葉ってやつはあるのか?」
「あるよ」
ナミネは紫苑の花弁を撫でながら少しだけ目を細めた。
「紫苑の花言葉は“思い出”や“追憶”。他には“君を忘れない”って意味もあるよ」
「何だか、切ない花言葉だな」
「そうだね。私もそう思うよ」
ナミネの指が優しく、慈しむように紫苑の花弁を撫でる。
「本当に……切ないよね」
ふと、ロクサスは弟切草と紫苑の花言葉について関連性を考えてみた。
強い闇の気配が漂うこのような場所に咲いている花にしては、妙に曰く付きな気がしてならないからだ。
意味が通じるように言葉を並べ替えれば『秘密の思い出』といったところだろうか。
いや、悪い捉え方をするならば『怨みを忘れない』という解釈も出来る。
この場合『秘密の思い出』とは、今ナミネが思い出しつつあるカイリの記憶そのものだろうか。
ロクサス自身、偶然知った花言葉を今の自分達の状況にあて嵌めて考えること自体、滑稽だと思わなくもない。
しかしながら、弟切草と紫苑が咲く場所に自分達が居るという状況自体に、どうも奇妙な因果を感じる。
「子供の頃、カイリは花が好きだった。そして多分、昔この場所で弟切草と紫苑を見たことがある」
「ナミネは、カイリの記憶を……感じているのか?」
「感じている、と言ってもいいのかな。ぼんやりとした感情が湧いてくる感じ。本当に曖昧な感覚だから、断言は出来ない。でも、この気持ちは理屈じゃない」
ナミネは立ち上がり、洋館の方に振り返った。
洋館を見るナミネの視線はやがて固定された。
ロクサスがその視線の先にあるものが何であるか気付くのに時間は掛からなかった。
ナミネの視線の先にあるもの——それは館の二階にある『Kairi』と刺繍が入った熊のぬいぐるみがあった部屋だ。
その部屋の僅かに割れた窓と微風に揺れるカーテンを、ナミネは静かに見つめている。
「何か思い出せそうなのか?」
「うん。だけど何だか漠然とした感じ。漠然とだけど……怖い」
「怖い?」
「思い出すのが……怖い。私自身の記憶ではないのに、どうしてこんなに恐怖を感じるんだろう……」
ナミネが漠然とした恐怖を感じる理由。
それは即ち、幼少期のカイリが恐怖を感じるような体験をしたことに端を発しているのかも知れない。
失われた記憶
ロクサスとナミネは正面入り口側に移動し、扉を開けた。
館の中に足を踏み入れた瞬間、例の嫌な感触に襲われた。
足の裏から脳天まで、冷たい電流が一気に駆け抜けるような——そんな感覚だ。
ロクサスにとっては二回目の、ナミネにとっては初めての感覚。
「今……すごく嫌な感じがした」
「やっぱり、ナミネも感じたんだな」
「足の底から——ううん、床の奥底から、と言った方が良いのかな。とにかく、何か得体の知れない悪寒を感じたよ」
「俺も、初めてこの館に入った時に感じた。その時は気のせいかと思ったけど、どうやらそうじゃないみたいだな」
二人は揃って足元を見た。
何の変哲もない石材で造られたであろう床だ。
しかし、二人は直感で理解していた。
この床の深奥に『何か』があると———。
「この感じ……憶えている……」
「ナミネ?」
「憶えている。この嫌な感じ、初めてなんかじゃない。遠い昔に、今と同じ感じがしたのを——私、憶えている」
「それもカイリの記憶なのか?」
「多分だけど、そうだと思う。裏庭の花壇で弟切草や紫苑を見ただけじゃない。カイリは、この館に入ったことがある。この感覚、間違いなんかじゃない」
ナミネの顔色が優れないことにロクサスは気付いた。
元々ナミネは色白だが、薄暗い洋館内にあってもハッキリ見て取れるほど、今の彼女の顔は紙のように白い。
唇もやや青みがかっているように見える。
「ナミネ、大丈夫か?」
ナミネは何も答えない。
ロクサスの言葉が聞こえてないわけではないのだろう。
しかし、心此処にあらず、といった様子だ。
彼女の視線は目の前の殺風景なエントランスではなく、遠い過去に向けられているようだ。
「カイリに代わって、私が見極める。カイリの過去……いいえ、記憶を」
「ナミネ?何を言っているんだ?」
「カイリはデスティニーアイランドに来る前のことは殆ど憶えていない。そのことはロクサスも知っているよね?」
「ああ。知っているけど」
「デスティニーアイランドに来た頃のカイリは5歳だった。私はノーバディとして生まれてから、まだ2年位しか経っていないから、人間の幼少期というものはよくわからないけど、5歳より前のことを憶えていないって普通のことなのかな?」
「まあ、人によるだろうけど、2歳から3歳くらいのことを憶えている人間も中には居るんじゃないか?」
「ロクサスもそう思うよね。カイリは5歳より前のことは殆ど憶えていない。でも、“殆ど”ということは、違う言い方をするなら“少しは憶えている”ということになるよね?」
「そうは言っても、子供の頃の記憶だろ?俺だってノーバディとして生まれた頃の記憶は正直言って曖昧だし、人間の子供だって同じようなものなんじゃないか?」
「私もそうだと思っていたよ。此処に来るまでは……」
ナミネが前を見据えたまま歩き出す。
エントランスから二階へと上がる階段の手摺に触りながら、彼女は向かいの壁に視線を向けた。
その先には絵画が並んでいる。
「いくらカイリが“殆ど憶えていない”と言っても、家族のことくらいは憶えているものじゃないかな?」
「ナミネが言っているカイリの家族って、よくお伽話をしていた祖母ちゃんのこと?」
「そう。でもカイリが話してくれた家族のことは、そのお祖母ちゃんだけ。それ以外のことは何も憶えていないんだって。お母さんも、お父さんも、兄弟がいるのかどうかさえも。どんな場所に住んで、どんな生活をしていたのかも憶えていない。それって、本当に普通なのかな?」
カイリの家族は不幸にも早くに亡くなり、祖母に引き取られて5歳まで育てられた。
そのように考えれば辻褄が合う。
しかし、衣食住に関する記憶が抜け落ちている点については、確かに少しばかり気掛かりではある。
5歳以前の記憶は、祖母との思い出のみ。
果たしてこれは普通のことなのだろうか?
「カイリはね、お祖母ちゃんのことは憶えていても、どんな風にしてお祖母ちゃんと引き離されたかは憶えていないって言ってた。カイリにとっては、唯一の家族だったかも知れないのに……」
「カイリはゼアノートによって、この世界からデスティニーアイランドに送り出されたんだろ?それって、つまり……」
「カイリと、カイリのお祖母ちゃんとの別れには、もしかするとゼアノートが関係しているかも知れない。そう考えるのは不自然かな?」
「不自然……ではないと思う」
「私もそうだと思うんだ。それともうひとつ。これは私の、カイリのノーバディとしての個人的な意見なんだけど、カイリは5歳より前の記憶——つまりレイディアントガーデンに居た頃の記憶を“憶えていない”のではなく、“失っている”というのが真実なんじゃないかな?」
「カイリが、本当は記憶喪失だって言いたいのか?」
「さっきの花畑や、床からの感触をノーバディである私が“知っていた”。そして、カイリ自身はお祖母ちゃん以外のことを“憶えていない”。それは、カイリが記憶を失っているから。私にはそう思えるのよ」
「もしそうだとして、カイリはどうして記憶喪失になったんだ?俺は記憶喪失について詳しく知っているわけじゃないけど、普通の人間がそうそうなるような状態じゃないだろう?頭を打ったりだとか、何か衝撃的な体験をしない限りは———」
そう言い掛けたところで、ロクサスはようやく合点が行った。
カイリがレイディアントガーデンに居た当時、彼女の身に『何か』があったのだ。
幼少期の記憶を意識の奥底に封じ込めてしまうような、彼女にとって好ましくない『何か』が。
「失われたカイリの記憶。でも、記憶そのものが無くなったわけじゃない。何か理由があって、今は思い出せないだけなんだと思う」
「だから、カイリに代わってナミネが思い出そうって言うのか?カイリの本当の記憶を……」
「カイリにとっては知らないままの方が、思い出せなくてもいいような記憶なのかも知れない。それは分かってる。だから、これは私のエゴなのかも知れない」
ナミネは何時になく真剣な表情で語る。
「それでも私……知りたい。カイリの過去……“もう一人の私”の過去を」
ナミネの言葉を聞いて、ロクサスは1年前の自分を思い出した。
仮想世界のトワイライトタウンで、自分は真実を求め、藻掻いていた。
そして、何かを知っているであろうナミネに会った際、こう尋ねた。
“やっぱり、聞かせてくれないか?俺が知らなくて、君が知っていることを——”
“君は……君は本当は存在してはいけないの——”
知りたくなかった自分の真実。
それは酷く残酷な現実だった。
しかし、今にして思えば、真実を知るべく一歩を踏み出したこと自体は間違っていなかったと思う。
ナミネにとって『真実』がこの洋館に眠っているなだとしたら、それは一体どのようなものなのか?
「カイリ……辛かったのかな?」
「え?」
「カイリはお祖母ちゃんが大好きだった。いつもお祖母ちゃんにくっ付いて、お伽噺を聞かせてもらっていた」
「ああ。そうみたいだな」
「大好きなお祖母ちゃんと離れ離れになったこと、辛かったのかな?」
「…………」
「大好きな人と離れ離れになる辛さ、苦しさ、悲しさ。まだ5歳だったカイリは、どうやって耐えたのかな?」
ナミネがエントランスの階段を昇る。
手摺を愛しそうに撫でながら歩みを進める。
ロクサスはナミネのすぐ後ろをなぞるようにして付いていく。
ロクサスの立ち位置からだと、ナミネの表情は全く見えない。
しかし、ナミネが今どんな顔をしているのか、何となくだが想像はつく。
少なくとも、いつものように微笑んではいないだろう———。
【第15話:真実の一端】へと続く
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